見出し画像

詩人建築家による小さな家

立原道造という詩人がいた。だが、彼は第二次世界大戦が始まる前の1939年に24歳で結核のために亡くなってしまう。若くして夭折した叙情的な詩人として知られているが、立原がもともと目指していたのは、詩人ではなく実は建築家になることであった。実際、彼は東京帝国大学で建築を学び、一学年下には丹下健三がいたが、在学中から抜きんでた存在で丹下たちからも羨望されていたという。

画像1

その立原が思い描いていた小さな家、いや小屋といっていいかもしれないが、大学卒業後に建築事務所で働き始めた頃からスケッチをこの小さな空間のための繰り返し、その数は50枚ほどにもなっていたという。しかし、入所したその翌年に亡くなってしまったため、ちゃんとした設計図もないまま長い年月が経ってしまった。その小屋、ちなみに「ヒヤシンスハウス」と呼ばれているのだが、立原の没後60年を記念して埼玉県浦和に建てられたのだ。

画像2

ヒヤシンスハウスの名前の由来は、立原が愛したギリシャ神話に登場する花にちなみ、彼の命日である3月29日が「ヒアシンス忌」とされているからだ。ル・コルビュジエが最晩年に愛用した南仏のカップマルタンの小屋にも似たこじんまりとしたこの家にもキッチンと風呂がない。窓の横に作られた横長の机、自身がデザインした椅子、本棚、デスク、ベンチ、テーブル、トイレが機能的に設えられてあるとてもコンパクトなスペースだ。

画像3

室内はベッドのあるプライベートな空間と、テーブルの置かれたパブリックな空間に分けられ(かといってそこに仕切りがあるわけではないが)、大きく開け放てるコーナーの窓や採光のための十字窓などからの自然光を取り入れられているが、この十字は自分がデザインした椅子にも施されていてどこか象徴的である。また、室内空間が2.4m×6.0mしかないものの、それほど狭さや圧迫感が感じられないのが不思議なほどだ。

画像4

聞くところによると、立原は丹下が崇拝していたル・コルビジュエのことはそれほど好んでいたわけではなかったらしく、北欧の、特にアルヴァ・アアルトの建築の自然と共存するような考え方に惹かれていたのだという。そう聞くと、確かにカップマルタンの休憩小屋ではなく、どちらかといえば吉村順三の軽井沢の山荘の方に近い感じがする。

画像5

「僕は室内にいて、栗の木でつくったもたれの高い椅子に座ってうつらうつらと眠つている。夕ぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで」という詩を立原は残している。おそらくこの小さな住処の窓から見る景色を妄想しながら詩作に耽りスケッチをしていたのだと思うが、全国から寄付を募って実現したというこの小さな家には、何の実績もないまま亡くなってしまった一人の建築家の思いが凝縮された魅力的な空間とだ。西浦和別所沼公園にあるヒアシンスハウスは水曜日と土曜日に公開されている。