赤瓦でいっぱいの竹富島が、実は島民の理想の姿だって知ってました?
先日、「観光とは何か」という話を、大学の先輩としていた。
「観光は社会情勢で定義が変わるから、教科書に載っているようなことが全てじゃないよね~。」という話。
その時に思い出したのが、この論文。
赤瓦は何を語るか-沖縄県八重山諸島竹富島における町並み保存運動-
福田珠己(1996)
論文と聞いて、難しそうだから読むのやめようって思わず、ちょっと聞いてください。この論文は面白いから!
以下、要旨を引用してみました。
本稿では,沖縄県竹富島において島を代表する存在である「赤瓦の町並み」が,どのように保存され今のような姿に至ったか,また,「赤瓦の町並み」が町並み保存運動の中で,伝統的建造物群保存地区という文化財としてどのように再生されていったか,伝統文化の創造という観点から考察する.
町並み保存のプロセスを検討していくことによって,「伝統的」であると見なされている町並みが本来はいかなるものであるのか,さらに,「伝統的」であるとはいかなることなのかが,明らかになるのである.
本研究の視点は,文化と真正性,伝統文化の創造,観光と伝統をめぐる諸研究と共通するものであり,本研究で取り上げた文化財として位置づけられている伝統的町並みは,研究者・行政・住民の三者の思惑が絡み合ったところに生じたもので,近 年注目されつつある「ふるさと」の文化,地域の伝統文化を考える上で,格好の素材でもある.
竹富島のイメージ
トップの画像は、星のや 竹富島のサイトトップのものを借りた。
ここに書いてあるコピーのように、竹富島は、伝統文化が残されており、沖縄の原風景を感じられる島という位置付け。テレビなどで、白い砂浜や赤瓦の集落、水牛車が通る道を見たことがあるのではないだろうか。
ちなみに私は(株)星野リゾートが大好きなので、いつか星のや竹富島に泊まりたい。
そんな竹富島の伝統的なイメージは、いったいいつ、誰が何のために創ったものなのだろう。本当の意味での原風景だったら、荒れ地なのでは?
※以下、論文の大多数と核心をすっ飛ばして赤瓦の来歴のみ書いているので、気になる人はぜひ論文本体を読んでください。
赤瓦の家は最初からあったのか?
◆1960年ごろ 民芸や祭りが、観光資源として注目されだした。
茅葺屋根の家が多い。
◆1972年 本土復帰
◆1970年ごろ コンクリートの家が増えた。赤瓦の家は微増。
◆1990年ごろ 赤瓦の家が増えてきた。
赤瓦の家が竹富島に普及しだしたのは大正期以降。
大工を雇って瓦や漆喰を購入する必要があるので、裕福な人しか建てることができない家だった。
あれ?じゃあ竹富島は元々赤瓦の家が立ち並ぶ島じゃなかったんだ!
ってなるよね?
その通り。一面に赤瓦の家が広がる景色は、竹富島の人々の憧れの景色という訳なのです。
竹富島の観光っていったい何?
じゃあ竹富島に来る人は偽物の竹富島を見に来ているということなの?
ってなるかもしれないけど、そういう事じゃなくて。
今の竹富島は、竹富島内外の人たち(学術の人・行政の人・島の人)が団結して、島の景観や暮らしを保存するために行動した結果の姿。
その過程も竹富島の歴史だし、観光の対象になると思う。見せてないけど。
島に住む人のアイデンティティは、赤瓦の町並みにあると思う。
そういうことも踏まえて竹富島を見て、とことん浸かって楽しむのが良いんじゃないかな~と思います。
ちなみに私はひねくれているので、「伝統的な〇〇」って言われると「いつの時点の切り取りなの?」って思う。今の慣習も、そのうち「伝統的なハンコ捺印スタイル」とか言われるかもね。
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