【第0歩】「高畑充希をめぐる冒険」のはじまり
いかん、いかん、いかん、数年前から、高畑充希のファンになってしまった。
それは、単なるファンというより、かなり重症レベルかなと自認している。
だが、なぜ、これほど、この女優のファンになってしまったのか、その理由が自分自身で理解できずにいる。
いや、そうはいうものの、実はよくわかってもいる。
ワタシは、この女優の作品ごとに豹変する様の虜になっているのだ。
ワタシがファンになったきっかけは、ドラマ「忘却のサチコ(連続ドラマ版)」からなのだが、最初は、この女優が高畑充希だとは知らなかった。
「高畑充希」という名前くらいは知っていたが、日頃あまりTVを観ないので、顔と名前が一致しなかった。
「忘却のサチコ」は作品自体素晴らしいドラマであった。
各話、各話作り込まれており、それぞれに楽しめる。
特に2話の「おにぎりミュージカル」と11話「忘年会ラッパー」はファンであれば、必見である。
また、感動の最終話も繰り返し観ても泣ける。。。
最初は、ドラマにハマっただけで、高畑充希はどうでもよかったのだが、 彼女が出ている別の作品をたまたま観たのだと思う。
その豹変ぶりに驚愕したのだ(と思う)。
そして、気がつくと、いわゆる今風に言えば「沼」にハマってしまったわけである。
そして、高畑充希の過去の映像作品を追いかける日々が始まった。
同時進行で、出演作も追いかけた。
「忘却のサチコ」以後、ドラマ、映画、舞台はほぼ全部観ている。
(唯一、舞台「奇跡の人」を見逃したが、今年再演されるので、期待している)
「役柄ごとに豹変する」と書いたが、他の俳優でもいるのではないか?という疑問もある。
だが、ワタシには、高畑充希は恐ろしいほど、その役柄になりきれているような気がしてならない。
髪型による印象の変化も普通の女優より大きいようにも思う。
「忘却のサチコ」
「ヲタクに恋は難しい」
「明日の食卓」
作品ごとにまったく異なるイメージである。
そう感じるのは、ワタシが「沼」に入り込んでいるからだろうか?
この演技の振れ幅はどこからくるのか?
単に才能といえばそれまでなのだが、なんでここまでできるのかが、不思議でならない。
ワタシがこのタイミングで、このテキストを書き始めたのは、高畑充希のフォトエッセイ本「穴があったら入ります」が発売されたのが、ひとつのきっかけでもある。
執筆期間が一年半という割には、30分程度で全部読んでしまえるほどの分量である。
写真については、まあまあというところか?
ただ、ワタシが知りたいところの役者としてのエネルギーの源泉を知る上で、絶好の資料であることは間違いない(はずだ)。
だが、この本を読んだところで、演技について直接言及する箇所はない。
軽いエッセイが中心である。
まあ、それはそれで楽しい。
だが、なにより不思議なのは、「穴があったら入りたい」ほど、書いたものを発表することが恥ずかしいという本人の言葉である。
あれだけTVに出て、舞台で大声を張り上げている人が、自分で書いたものを発表するというだけで恥ずかしいというのが理解できない。
この記者会見でのナヨナヨした感じは、観ていて微笑ましいものの、なんでそんなに恥ずかしいのか?という疑問も持ってしまう。
(なぜかそのときの各メディアの会見動画は、既に削除されてしまっている…)
堺雅人と共演した「DESTINY 鎌倉ものがたり」は、とても楽しめるSF(VFX)映画だ。
この映画で、高畑充希は一人二役を演じている。
とはいえ、二人目はほんの短いシーンでもあるが、重要なシーンでもあった。
魂のみ入れ替わり、姿、身体はそのままという役どころを見事に演じ分けている。
これについて、堺雅人と高畑充希が語っている記事がある。
同じ記事の続きで、高畑充希は珍しく、演技とは何かについて語っている。
これは、はっきり言って、天才の言葉ではなかろうか?
また、最近のことだが、TBSテレビ「日曜日の初耳学」で次のように話している。
おそらくは、昨年秋に放送されたwowowの「いりびと−異邦人-」のことを指すと思われる。
確かに、ミステリアスでシリアスなストーリーであったから、理解できることでもあるが、「よくわからないまま」というのは、凄いとしかいいようがない。
さて、ワタシは、これから、長きに渡り、この「高畑充希をめぐる冒険」という題名で、駄文を書き連ねようとしている。
結局、何かしらnoteで表現しようと企んではいたが、書きたいことなどそう多くはない。
だが、なぜか、高畑充希だけは、ポツポツと発表したい小ネタが常に生まれている。
だから、本当に続くかわからないが、しばらくは、やってみたいと企んでいる。
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