忘却のサチコについて・雑感
原作は今の所読んでいないので難だが、「忘却のサチコ」は、とてもハマったドラマである。
なぜ、こんなにハマるのか不思議であるので、少し文章化してみたくなった。
おそらくは、テレ東のグルメドラマであるので、その食べっぷりがひとつのエンターティメントであれば成立するのだろうが、「忘却のサチコ」は主人公のサチコの極めて独立したユニークなキャラクターが、このドラマの大きな主軸になっている。
一部のネット上の反応では、「孤独のグルメ」の二番煎じという意見もあったが、このドラマの中では食が大きな要素ではあるものの主軸ではない。
むしろサチコの行動が(表情が)コミカルであり、思想が(その帰結が)ぶっとんでいることが面白いのだ。
対して、結婚式の最中に逃げた俊吾という人物は、(少なくともドラマの中では)行動が支離滅裂で、何か人間ではないようにも思える。
私が思うに最終回は、とてもいい終わり方だったように思う。
(これ以降はネタバレであるので、ご注意を…)
俊吾が持ち帰った鮭で、自身が調理し、石狩鍋を作る。
それをサチコと一緒に食すが、その最中にサチコがなぜ結婚式で逃げたかを問い詰める。
俊吾は謝ることに終始するが、理由を言わない(理由があったのかどうかさえ不明の)俊吾をサチコは拒絶し、俊吾が差し伸べた手を払う。
そして、サチコの部屋を俊吾が出ていく。
一人の部屋で、サチコは石狩鍋を食す。
最後に雑炊も作る。
俊吾が言っていた「漁師がバターを入れてもうまい」というので、それも実践する。
おそらくは、2人前以上あったであろう鍋を完食する。
このとき、今までの食のシーンであったナレーションはなく、ただサチコは食べるのである。
ある種の魚や昆虫で、生殖行為が終わったのちにメスがオスを食べてしまうことがある。
淡々と石狩鍋を食べるサチコは、強い。
(つまり、俊吾を食べてしまったとも思える)
マンガ原作を読んでいないので、真意は不明だが、このマンガ(ドラマ)の忘却とはどれほどの深い意味を持つのだろう?
人間は忘却することがひとつの能力であるはずだ。
また、忘却によって、可能性が開けていく。
このブログの前の投稿で、松たか子が自身の演劇を観た観客がその後、忘却していくことが面白いという話をしていたということを書いた。
もし忘却=死を意味しているのならば、なぜ食べることで、忘却できるのだろう。
食物とは既に何らかのかたちで、死んでいるものだ。
(食べるために野菜も食肉も切り刻まれている)
それらの力を持って、我々は生きる力に変えている。
つまり、食は死を生に変える行為なのだ。
そのことを極めてポップに描いているのが「忘却のサチコ」というドラマなのではないか?
(話は変わるが…)
このドラマのエンディングテーマの入り方は絶妙だ。
回(このドラマは第○回ではなく、第○歩と呼ぶが)によって、良し悪しあったが、ラストシーンの余韻にeddaの「ループ」が重なる。
「ハッと息を飲んで僕ら待ち焦がれた
調子外れの朝今日がまた始まる
約束落とした最後のページ
あっけなく迎えちゃってまた最初から
言葉ひとつ出ないもんなってちょっといじけてさ
何度だって君を待っていた
綴られた声を響かせたら
転んだってきっと前を向いて進めるでしょ
それじゃあねほら大きく手を振ったら
忘れようまた笑えるように なんて」
(edda「ループ」歌詞引用)
この「綴られた声を響かせたら」という言葉がいい。
勝手な解釈(妄想)だが、「綴られた声」とは「文字(死)」が「声(生)」になったことを言っているのではないか?
どこまでも前向きに生きること。
サチコの生い立ちは不明だが、極めて前向きに突き進む。
「忘却のサチコ」を忘却できない我々は、サチコを高畑充希に変換し、他の作品を見ることになる。
ラストシーンを見る限り、数年後サチコは帰ってくるに違いない。
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