小説「きみを わする」9

 春が近づいてきた日だ。
 忘れられても、忘れられないもの。わかりきっているようで、わからない考え。理解する前に、共感の嬉しさだけが浮かぶ。反芻は何十万回も巡って、この日になってしまった。
 有架は引越しの準備をしている。男は手伝いたいと思うのだが、それは出来ないどころか邪魔してしまうだけだと思い、いつものように黙って見ていることにした。幽霊を演じる人間のように。外には大きな青空があり、手前には大きな窓、明るさのせいか輪郭がいやにはっきりとしている。反対に部屋の中は、目が慣れないためかほとんど黒く見え、ものの判別がつきにくい。その暗がりに、男は優しく佇むのである。優しく、何も思わない日だまりのように。
 有架は、しきりに動いている。大きなごみ袋に物を入れ、本の類いは縛ってまとめ、時々汗を拭っては茶を飲む。途中から有架の母親も加わり、相談しながら作業を進めていった。一段落ついたと思えば、奥からさらに荷物を持ってきて、母親はよくもまあこんなに溜めたものだと笑っている。
 その繰り返しの中、有架が小さな箱を取り出して来た時だった。母が訪ねる。
 「それは?」
 「ん。手紙。今までいろんな人にもらったやつ。先輩とか、友達のとか。」
 「あら、懐かしいじゃない。」
 有架が小さな紙片を取り出す。小さな声が漏れる。紙片には「いつか、またね」とだけ書いてある。
 「祥美ちゃんって、いたでしょ」
 「うん、よく覚えているよ。引っ越しちゃった子でしょ?有架、すごく仲良かったよね?」
 「そうそう。元気かなあ。その子が直接家のポストに入れてくれたやつだ。」
 母に紙片を見せる。母も、何か思い出したらしい。
 「・・・お母さん、祥美ちゃんが引っ越す直前のこと、覚えてる?」
 「もちろん!祥美ちゃんが急に冷たくなった、って泣きそうになりながら晩ご飯食べたときあったものね。この世の終わりだ、くらいのこと言っていたもの。心配したよ。」
 「だって急すぎて何もわからなくて、本当に焦ったの。昨日まで普通に遊んでいたのに、次の日から全然話してくれなくなっちゃって。何かあったのか、私が何かしちゃったのか聞いてもまともに取り合ってくれないし。」
 「あの子なりの気遣いだったのだろうね。仲良くすると別れ際が辛くなる、って」
 「そうだろうけどね。優しすぎるよ、祥美ちゃん。・・・あ」
 「有架、どうしたの?」
 「今急に思い出した。引っ越す少し前、急にあの子が話してくれなくなった後のこと、急に夕立が降った日があってね。傘がなくて学校の玄関で困っていたら、祥美ちゃんが来たの。話しかけられずにいたら、ぱっと振り返ってくれて、傘に入れてくれたの。」
 「うん、それで」
 「で、最初は二人して顔が強張っていて上手く話せなかったのだけど、少しずつ色んなことを話して・・・あの時だけ、嘘みたいに優しかった。本当は冷たい態度の方が、嘘だったけどね。」
 「それでね、別れ際、自分の家の方が近いからって、祥美ちゃんの傘を貸してくれたの。」
 「あ、それ覚えているよ!有架、ずっと使っていた折り畳みのやつだよね?」
 「うん。貸してくれた次の日はまた怖い祥美ちゃんで、傘もいつか返そうと思っているうちに引っ越してしまって。高校生の時もずっと使って、でも確か誰かに貸したままになっちゃっているはず。誰に貸したのだっけなあ・・・」
 「あの、すごく綺麗な色の傘だよね。」
 「お母さんも気に入っていたよね。」
 「・・・その傘は何色だったかしら。」
 「・・・・。」
 「何色だったろう・・・」
 忘却の彼方には新しい青空、少し霞んで、窓の外にあるだけである。
 二人はしばらく外を見つめていた。急に部屋は静かになり、思考だけ放り出されたように。
 「祥美ちゃんと、また会いたいと思う?」
 「いや、いいかな。確かに会えたら嬉しいと思うけれど、今はこのどっちともつかない気持ちが心地よいよ。」
 「いいね。私もそう思う」
 「でも、思い出も足枷かなって。だからこの手紙も、もう捨てようと思う」
 「いや、待ちなさい。」
母は制止する。
 「それはうちに置いておこう。それくらいの距離感がいいよ」
 「そう?」
 「ぜひにそうすべきよ。手紙みたいに良い心が込もっているものは、枷にはならない。いいタイミングでまた目が合って、読んで、その時のことかその人の心を思って、気持ちを新しくしてくれるはずよ。『あの手紙のおかげで、右を選んでいたはずの人生が左に突き進んじゃったなあ』ってこと、一度や二度じゃないんだから。」
と母は笑って言う。
「そっか・・・。じゃあさ」
「うん?」
「その、左を選んできたら右の人生は見えないわけでしょう?」
「もちろん」
「・・・右が気になったりしない?」
 有架は少し訝しげに、そして大部分嬉しそうに聞く。母は少し考え込む。
「そうだねえ・・・当時は死ぬほど悩んだ気がするけど、結局えいっと色々選んできたし、もう忘れちゃったかな、はは」
「はは、って・・・。その選択が間違いだったとしてもそれでいいの?」
「うーん、難しいねえ・・・。でも、どんなに間違いを重ねていたとしても、今有架とこうして話せているんだもの。最高よ、本当に」
 微妙な表情は両親譲り。
「でもね」
「でも?」
「人生が五回くらいあったら、三回目くらいは右のままでもよかったかもな?なんてね。」
 母と子は笑いながら話す。
「えー、でもそっちの人生だったとしたら、私出てこないでしょう?端役でも良いから登場したいなあ。」
「それは私も同じよ。有架の違う人生でも、私出してよ?『一時期飼ってたミドリガメ』とかでいいからさ」
「何それ?何でミドリガメ?」
 親密な、親子の会話はいつまでも止まらない。このいつまでも、というのはいつまでか。この演劇が終わっても、世界が最後を迎えても、この強さは消えない。
 遠くでは、幾重にも平行に折り重なった首都高速道路が動いている。ベランダのすぐ前にある建設地では、建機はあちらこちらと働いている。街は新しい様相に向けて動き出していた。

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