小説「きみを わする」2

 今日がその日だ。といってもなんてことはない、あの観劇の後は驚くほどに普通に、普通の生活に戻っていった。気がつくと、そういえばあのチケットのことを、あの奇妙な演劇の、あの女のことを思い出したのである。
 今日は取れかけていたコートのボタンが外れた。いつ外れたのかはわからない。
 それに気づいた時、電車に乗っていた。辺りをなるべく隈なく見回したが、それらしきものは無かった。仕事場も家も探したが、やはりない。替えのボタンを、とも思ったがそれも見当たらない。どうしようもなく喪失感を意識せざるを得なかった。
 この喪失感は、そういえば学生当時の恋愛を思い出す。相手はそんなに美人なわけではなかったが、とても楽しく甘い日々だった。同時に、捉えがたい焦燥感が襲った。そしてそれは消えることがなかった。当時はそれが何なのかわからず、徒に怒ってみたり、試してみたり、名付けられない不安から逃れるために歪に求めた。それが結局意味のないことだと気づいた時には、その恋人は男の前にいなかったのだった。恋愛は、人と人が関係を持つことは、欠けた自分を補完すると共に、何かを失っていくこと、そしてそれを抱き続けることなのだろうと今では思っている。
 そのようなことを考えるうちに、男の中で、例の劇を再び見に行く心の手筈が整ったのだ。

 今日は雨で、ベランダを冷たい滑りが通って辺りを充たしている。そんな時、人は思考の深みにさりげなく触れる。
 前のような手順で部屋に入る。前は気づかなかったが、水木、という名字らしい。なんだ、表札があったのか。
 水木だという女は、今日は布団の中にいるようだ。あの日からずっと?・・・まさか。しかも劇内時間は現実と平行して進むという設定でもあるまい。この心配は二重に無用だ。
 女はどうやら携帯電話で調べものをしたり、しきりに誰かと連絡を取ったりしているようだ。

「そう。だから昨日は福井の実家で。叔母さん、お母さんにすごく会いたがっていたよ。全然連絡もくれないからって。たまには電話でも手紙でも寄越せーってさ。・・・それで、おばあちゃんの写真を探してみたのだけれど、結局ちゃんとしたのがなくて。小さく写っていたり、日焼けて顔が見えなくなっていたり。復元してくれるお店とかも探してみたけど、それで上手くいくのかとか、上手くいってなんなのかとあれこれ考えたら、なぜか沈んできちゃって、結局戻ってきた。うん、そうかな?・・・そうだといいのだけれど。」
「なんで全然覚えていないのかなあ。亡くなったのが私6歳の時だよね。物心がつくのが遅かったにしても、2年間くらいの記憶はあってもいいのになあ。あ、あれは?海水浴に行ったときにさ、浮き輪が流されちゃってどこかに行っちゃって。黄色いやつ。...うん、え?いや黄色でしょう?お姉ちゃんが赤いやつで。あれ?逆だったっけ?なんだかお母さんと全然記憶が違うなあ。いっつもそう。悔しい。全然思い出大事にしない人みたいじゃない。そんな薄情じゃないはずなのだけど。」
「でも、またみんなで行きたいな。蜃気楼。見に行きたい」
「うん、そしたらまたね。そっちにも行くよ。バイバイ」
 長台詞、というやつだろうか。恐らく母親であろう。言葉は自然で、電話越しに相手がいるようだ。いや、あるいは本当にいるのだろうか。
 女はふーっと息を吐く。前回のごとく、こちらには気づかない。ドアが開いた音なんかは聞こえないのだろうか。
 しばらくして、再び電話である。また別の相手らしい。
「もしもし!ごめんね急に。ちょっと聞きたいことがあって...」
「3年生の時に、児玉くんっていたでしょう?ほら、あの交通事故で...。それで、彼のこととか何か覚えていないかなって。いや、なんというか、ちょっと気になってね。」
故人のことを知ろうとしている?
「そっか。高校は同じところに行ったんだよね?身長とか見た目、どうだった?中学の時はすごくちっちゃかったじゃない。...ああ、そうなんだ。」
「いや、彼と関わりなくて、覚えている顔っていったら卒業アルバムの写真と、お通夜の時見た顔しか覚えてなくてさ。え?私?そんなに喋ってたっけ?確かに同じクラスだったけれど。うーん。そうかなあ。えー?」
 それから、女は他愛もない会話を応酬しつつ、クローゼットからアルバムを取り出した。ページをめくり、誰かを探すように写真を見つめ、時折一点を見つめ何か思い出そうとしてはため息とともに首をかしげるのであった。
「んー。やっぱりぼんやりとしか思い出せないなあ。言葉になる前の記憶って感じで、何の思い出かっていうと、なんでもないような。匂いとか、光の感じとか。話した内容なんてさっぱりだよ。」
 「なんでだろう。友達の顔とか結構覚えるのはやい方なんだけどなあ。一回覚えた電話番号とか、ぱっと出てきたりするのに。いっつもそう。大切じゃないことだと思ったものの方が、後になって思い出したくなる。で、その時には微かに曖昧になって、言葉とか理性では掴めなくなっちゃうんだ。その作用は何なのだろう。
「でも、そうかあ。1年のはじめは喋っていたのね、私。喋らなくなった原因、なんだったのかな。そういう話、お通夜の時にすべきだったなあ。・・・ありがとう。また近々連絡してもいい?・・・うん、またね」
 電話を切った。しばらくアルバムや携帯電話、タブレット端末を眺める。閉じた画面に男の姿が映る。すると、前回のように彼女は震えだすのだった。再び母親に電話をかける。
「ごめんね、ちょっと...前言ったやつ。私霊感強いのかなあ・・・。いや、何もしてこないのだけど、怖くて、大丈夫だと思うのだけど、しばらく電話させて・・・」
 やはり男を幽霊扱いである。前回よりはお互いに落ち着いているが、やはり驚かせた申し訳なさと、生身の人間であるという弁明をしたくなる気持ちとが浮かび、このストーリーはどうなるのだろうというところに収束するのだった。
「ここに引っ越して来るとき、大家さんはこのアパートはそういうの何もないから安心してって言ってくれてたのに...。にしても何だろう。」
 その後落ち着いた女は電話を切り、代わりにラジオをかけそのまま、寝る体勢に入った。自分の気配が消えることですこしでも安心できると良いと思い、男はその場を後にした。

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