小説「精霊」

「私が死んだらさ、どうしてもらいたいと思っていると思う?」
 ややこしい言い回しで彼女は聞いた。
「どうして、って何を」
「死んだ後の私を、ってこと」
「そうだね・・・毎月お墓に行くし、家にもちゃんと仏壇を作って毎日話しかけたり、死んだら退屈とかそういうのがあるか分からないけど、飽きないようにするよ、きっと」
「ありがとう、そのお墓のことなんだよ」
 彼女は、特に死ぬ予定があるわけではないのだけれど、と正しつつ続けた。
「この間ドライブに行った時に見たんだ、『ペットと樹木葬』っていうのぼりの旗。そういうの、すっごく憧れちゃうな」
「ペットって、何も飼っていないじゃない」
「そう、そこで君の役割だ」
 彼女の要望とは次のようだった。動物と一緒に入れるという霊園の、しかも樹木のそばに埋葬されるタイプの墓に入りたい、そして、残された私が動物を飼っていき、世話をして、亡くなったら同じ墓に埋葬していってほしい、ということだった。遺灰は、これから旅をして出会った、どこか気に入った海に撒いてほしい、とも付け加えた。
「どんどん入れてって、じゃんじゃん」
「シーズン一回目の鍋かよ」
過去とばかり生きていかないようにしたいと、しきりに言っていた人だった。
「常に更新していきたいんだ、“F5連打”がいい。いつも未来と生きていたい」
「いや、その頃には生きていないよ?」
「そうか、じゃあ、いつも未来と死んでいたいよ」
 
 果たして、彼女は死んだ。私は犬を飼うことにした。
 彼女が寂しくならないように、遺影には毎日話しかけた。犬とは毎日歩いた。
 近所の道を歩く。少し離れた大きな桟橋を歩く。美しい内湾を歩く。
 自分が犬を飼うだなんて、思ってもみなかった。生まれてこの方、動物を飼ったことなどなかった。小さい頃、近所にいる雑種犬と遊ぶことはあったが、それも、一度だけ「お手」をしたり、背やわき腹の辺りを恐る恐る触ってみるくらいのものだった。そんな自分が、食事や、散歩や、排泄の世話をする姿など、考えにくかった。今、犬と淀みなく暮らしている。こんな風に暮らせるなど、彼女が生きていた時には気がつかなかった。日暮れ時の散歩、犬は、随分と先を行っては、不安そうにこちらを振り返り、私を待つ。そのたびにリードが伸び縮みし、まるで二人で世界を測量をしているみたいだと感じた。
 やがて、犬は結構長生きすると感じた。これでは次の埋葬はいつになるか分からない。そう気づいてすぐに、メダカとカブトムシを飼い始めた。犬がいたずらしてしまわないように気を付けながら、飼い方を本で調べて、なるべく丁寧に世話をした。
 特にカブトムシは自前で捕まえたのですぐに彼女に報告した。夏の始まり頃に捕まえたカブトムシは、夏が終わる頃には死んでしまった。虫かごに入れて、旅にも一緒に連れて行った。死んだのは、盆が少し過ぎた後のことだった。
 カブトムシがゼリーを食べている時に調べたことには、どうやらこの生き物は一度、ほとんど液体になるらしい。幼虫から蛹になる時に、殻の中でその体が溶け、成虫として生まれ直す準備をするということだった。液体になって生まれた君と、灰になって未来と死に続ける彼女と、ワンルームでこうして留まっている私と。その違いとは、一体何なのか。自分の皮膚の下も実は液体のようなもので、日々生まれ直しているのかもしれない、と感じた。毎日、生まれ直す蛹。その時、彼女のことに関して、初めて泣いた。テレビには、戦争が終わって何年、ということが報じられた青い空と入道雲が映っていた。同じ空模様を、自室からも確認できた。
 
 いよいよ、カブトムシを彼女のもとに届ける日が来た。
近頃は昆虫葬も結構多いみたいですよ、と係員は言っていた。てっきり火葬してくれるものだと思っていたが、意外にもそのまま埋葬するということだった。それでは煙になって天に昇ってくれないのではないかと不安になったが、細かいことは気にしないようにした。
 これで、彼女も少しは寂しさが紛れるのではないかという、少しばかりの自信があった。きっと、私と同じように、ゼリーをむしゃむしゃと食べる口の動きや、表面の毛羽立ちの感じを見て楽しむのだろうと、納得があった。
 高台にある霊園を出て、階段を下っていくと、空は透き通って夏の終わりを告げていた。薄く目を閉じ、あからさまに深く呼吸をする。汗をかく額に風が吹き、犬がバフ、と一声あげた。
 
 しばらく経って、霊園で初めてのイベントをやるというので出かけた。冬も終わりのことだった。一つの樹に、いくつかの墓があり、その下では、何人かの人、そして大体同じ数の動物達が埋葬されているということを、ついこの間病気で死んでしまったメダカを埋めに来た時に聞いた。今度のイベントとは、その樹にライトアップをして、亡くなった方々と、それぞれが愛した動物達の安寧を願う、というものだった。夜の墓地、というと非常に怖いものがあったが、なるべく明るくしておきますので、ぜひ、と言われた。そういうイベントに反対する人もいるのではないかと尋ねたが、一人ひとりご遺族に了解を取っております、とのことだった。
 イベントには、存外多くの参加者がいた。高台の下でその時行われていた桜のライトアップイベントとつなげられるような形で、霊園への道が照らされていた。確かにさほど暗い感じもせず、和らいだ寒さも相まって、穏やかな気持ちで会場へ出向いた。桜はつぼみに色がついた程度で、開花はまだ先のようだったが、人の往来はさかんだった。
 霊園の中を歩いていく。高台を登る階段はもう歩き慣れていたものの、いつも来る昼間とは印象が違い、つまづきそうになる。何度かそれを繰り返し、ある程度の高さまで来たところで振り返った。いつも見ていた景色は、厳かな夕暮れとなっていた。下の方では人々の楽しそうな声が聞こえ、出店の灯りが見える。その風景を、鈍色の地面と、空が、蓋をしようとしている。精密に削り取られた金属同士が、一分の隙間もなく重ね合わせられるようだった。これから踏み入れるのは、精霊の地だと思った。
 彼女の墓にたどり着くと、樹の下で談笑をしている人たちがいた。皆、家で一番温かい服を選んできただろうという格好をしていた。少し離れたところにはたき火があって、そこにあたっている人たちもいた。
 キャンプ用の、金属と布で出来た椅子が用意されていて、私はそこに腰かけた。たき火の炎が次から次へと形を変える。樹木を照らすイルミネーションに、煙が照らされる。風もない宵の手前、煙は真上に上っているようだった。
 少し離れたところに腰かけていた中年男性が、私に話しかけてきた。隣、いいですかと尋ねられたので了承すると、男は紙コップに入ったホットワインを渡してきた。
 亡くなった妻とペットのトカゲとが埋葬されている墓のそばに少しでも長くいたいがために、キャンプを楽しむ装備を買いそろえるのが趣味になったと、その男は語った。夏にはこの広場にタープを設営してゆっくりと風にあたり、冬はとにかく暖かい格好で、こうして焚火をしながらゆっくりと考え事に耽るのだという。今私たちがあたっている火も、彼の提案で設置したものらしかった。個人で用意したものにしては、焚火というよりキャンプファイヤーという規模だったが、そこには触れなかった。
 差し出されたワインを口に含む。喉に潤いと熱が通る。予想していたよりも、随分と複雑な味わいがした。果実、スパイス、草や土さえも感じるようで、それでいて一つの甘さにうっとりとするようだ。驚いた様子が男にも伝わったのか、「最近は味にもこだわり過ぎるようになってしまって」と苦笑いしていた。
 一人になる前には、キャンプにのめり込むことも、香辛料や酒に詳しくなることも、考えもしなかったという。
「自分にとって大切な存在を失って、そうして初めて、自分の中の違う面が開かれた、という感じもするんですね」
 男はニュアンスを丁寧に選びながら、話す。それから少しばかり、話を続けた。
 「妻と、トカゲの…ピンちゃんはほとんど同じくらいに亡くなったんですね。ピンちゃんは人懐っこいから、妻が寂しくないように後を追ったのじゃないかと思うのですが、やっぱり立て続けにそういうことが起こると、本当に苦しくって…。いずれ来るとは覚悟していましたが、気持ちの整理なんてつかないですね。」
「それで、さっきの話に戻ってしまいますが、キャンプ道具にはまってしまいまして…。妻とピンがいる時は、それに甘えていたのか、休日は何もしていなかったんだなと今さら気づきました。いや、今だって、場所が変わっただけで、特段何をしているというものでもないのですが…。それでも、前向きにこのゆったりした時を楽しめているというか。これはきっと二人が残していってくれたものかなと思います。」
男は、失ったものと今出会い直すような身振り手振りで語った。実際、今ここで話してみて気づくことが何かあったようだった。
 「今日はあなたと話せてよかった。もし会えれば、今度は暑くなる頃に、ここでアイスコーヒーでもいかがですか。・・・はい、ぜひ、また。」
 
 炎を見ながら、彼女の今の姿を想像してみる。いつも未来と死んでいたい、と言っていた彼女。考えても、その言葉の意味はよく分からないままだった。きっとその言葉自体、私には未来の言葉で、いずれ意味が追い付いてきて、自分の頭の中で、部屋の明かりがつくように了解するのだろうと思う。
炎と戯れる彼女。そこにはカブトムシもメダカも、これから私がともに暮らすであろう生き物たちもいて、とわ、とわ、と浮いている。そのことを思った。
 また来るね、とだけ言い、下界の花見客に私の姿が紛れるまでには、そこまで時間はかからなかった。

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