小説「きみを わする」1

 翌日になった。地図を便りにその場所に行ってみると、そこにはごく普通の、いや普通のと言うには古ぼけすぎているアパートがあった。
 外の通路には朽ちた植木鉢や、干したまま忘れられた、先が斜めに削れた黄色い傘がある。ここはあまりにも、生活の匂いがくどいほどに溜まっている。本当にここに例の会場はあるのだろうか。やはりいたずらなのか。
 チケットを見直してみる。「503号室」とある。やはりここで間違いないようだ。およそ、普通の劇場・普通の演劇ではないと見える。
 しっかり持つとほころんでしまいそうな手すり、階段を上がり、やはり心もとない廊下を歩く。壁の塗装も、新しく塗られた色と地の色の区別がつかないような、微妙すぎる淡い色。各部屋の扉はそれに白っぽさが足されている。503号室の扉の鍵は開いていない。このまま待っていれば受付の人間が中から出てきて、入れてもらえるのだろうか。ひとまずインターホンを押してみることにした。
 電池の切れかかったような頼りない感触とともに、やはり頼りない音がなる。鍵が開く気配がない。やはりあれもこれも間違いかいたずらか。とすると、中に人がいないのは不幸中の幸いか。今は誰とも話せそうにない。
 少しすると、部屋の郵便受けが開いてしまった。いや、開いた。郵便受けを開ける?動揺しながら思いついて、チケットをそこに入れてみる。・・・鍵が開いた。なかなかどうして難儀な仕組みだな、と男は少し窮屈に思う。
 さて、開演の時間である。驚くほどに普通の部屋である。脱ぎ履きしにくい玄関、短い廊下には扉が2つあって、おそらく洗面所や風呂場だろう。その向かいにはキッチンがある。規模から見て1人暮らし、多分自炊中心、小物はおそらく若い女性の趣味だ。
 つきあたりが居住スペースであり、舞台となるのだろう。自宅を使って1人芝居を見せるのが趣味、または演じることがライフワークとでも言うのだろうか。
 居間に入るが、誰もいない。勝手に入ってよかったのだろうか。住人が帰ってきて通報されたとして、この状況をどう供述するのか。「チケットを入れたら鍵が開いて入ってしまいました」とでも言うのか。「・・・などと意味不明な供述をしており」と新聞の小さなスペースに不甲斐なく載ってしまう。
 間もなく、廊下の途中にある扉が開いた。住人はいたのだ。こちらに向かってくる。

 「あの、すみません勝手に、家にこのチケットが送られて来て、ここが会場と書かれていたものですから。すみません」
 二回も謝ってしまうが、返事はない。それどころか、目も合わない。もはや、私の身体のどの部分にも目線が来ていない感じがする。
 「あの、すみません・・・。」
 全く反応がない。とりあえず、予想通りだった若い女性がどうするのか、予想外が続く男はどうしたら良いのか。まずは女の様子を観察してみることにした。
 最初の印象は、その黒い髪であった。さらさらとした短い髪の毛が濡れているように、音も立てず揺れる。数時間後自宅に帰った時には、それしか思い出せないほど動転していることに、男はまだ気づいていない。
 上手く切り揃えられた、目にかかるくらいの前髪。その付け根が見えないほど上の方から始まっている鼻筋は、彼女のえもいわれぬ雰囲気を引き出すには十分である。そこから視線は鼻先を滑り落ち、シャープながらも女性らしさを醸す顎。首筋に透かす血管。服は部屋着であるらしい、ゆったりとしたシルエットのシャツ。それにしては皺もなく、細かな絵柄が美しいドレープを作っている。演劇の衣装であると言われれば納得である。
 少しの間、息をすることすら忘れてしまった。女に気づかれないように、静かに呼吸を取り戻す。頭がくらくらする。その間、女は自然な動きでステレオからCD音楽をかけ始めた。日本語で歌われているが、この時の男には、遠い外国の物語のように聞こえた。
そのまま、しばらく2、3曲経った。一向に何かが始まる感じがしない。いや、そういう雰囲気を以て、演技を始めていると言うこともできるのだろうか。その生活ぶりも、さして特別だという感じはない。少しだけ動きがゆったりと滑らかで、茶をグラスに注ぐ所作が優しいというくらい。なるほど確かにこちらのことをあえて気にも留めない辺り、こういう演劇なのであろう。しかしその演技の中で彼女は携帯電話の画面を見つめたりベッドに寝そべって考え事をしたりするばかりで、とにかく物語が始まる気配がないのだ。この公演?は何なのか。人間観察を楽しむという趣向のものなのだろうか。
 人間観察は、生まれて間もない頃からの男の癖だった。当人は最近、これはもはや宿痾だとすら思っている。小さい頃、両親に連れられて近所の神社の縁日に出掛けたことがあった。3割増に美味しそうに見える食べ物や、奇っ怪な色のお菓子。男が一番惹かれるのは、「はずれなし」のくじ引きであった。はずれがないかわりに当たりもないのだが、それは巧みに隠されている。絶対に当たらないのは子どもながらにわかっているが、それでもやってみたくなる、絶妙に人間の弱いところをついてくるのが、このくじ引きであった。300円を払っては、何度も泣きを見た。いつしか、自分が欲しいものは自分が持てなかったからといってその存在が消えてなくなるわけではなく、誰かの手に渡るだけで、それならいいじゃないかと考えるようになった。小学3年生頃にはすっかりくじ引きから足を洗った。くじ引きをやめても続いたのは、縁日に来ている人を眺めることである。
 くじではずれのような当たりを引いた時、くじ引き屋のテントに誘惑されぬよう目を逸らした時、その視線の先にあるのは人の顔だった。いつもより派手な同級生、浴衣姿の男女、自分と同じような家族。その中でも男が興味をそそられたのは、たまにいる「縁日の雰囲気と全くマッチしない大人の人」であった。自室から突然縁日の浮かれたムードに迷いこんだような、もっと言うと異世界からこの世に迷いこんできたような、そんな容貌の人であった。なぜここにいるのか、前はどこにいたのかが姿から読めない。そんな姿に心惹かれたのである。その人は大抵ふらふらと、人ごみの中に消え、二度と現れないのであった。

 日が暮れて、部屋の中も暗くなってきた。外は街灯がつきはじめている。帰ろうかと思った頃。彼女が部屋の電気をつけたときだった。
 ガラス越しではあったが、目が合う。瞬間、女の様子が一変する。肩を強張らせ、明らかに動揺した様子で、興奮しているようだが顔面は蒼白である。三度ほど、私がいる方向と先程目が合ったガラス面とを交互に見、布団に飛び込んで出てこなくなってしまった。
 布団の中で電話を始めたようだ。
「ちょっと助けて、家に知らない怖い・・・えっと、見ちゃった、あの、幽霊なの、ガラスに映っている時しか見えなくて、今来られない?布団の中、動けなくて・・・」
 幽霊?これはどういうことなのだろう。無視され続けていると思えば、幽霊扱い?彼女は怯えていて、布団から出てこない。どうしたらよいのかわからないまま動けなくなってしまった。緊張はまだ続く。
 しばらくして冷静になってみると、そういえばこれは演劇で、彼女も演技をしているのだ。さしずめ、観客も参加することで成立する演出のものなのだろう。だからこそ、こんなアパートの一室を舞台として、演劇をしているのだ。そうに違いない。なんてことはないのだ。しかし、あまりの演技の迫真ぶりにいたたまれなくなり、やはり帰ることにした。続きの展開があるのかもしれないが、この空間のせいか演技上の彼女への思いやりが勝り、部屋をあとにする。もし逆の立場なら、幽霊にはそうしてもらいたいと思うからだ。

 不思議な演出に少し動揺しつつも、気分転換にはなったかもしれない。それに人の生活を観察するような感覚も悪くはない。と彼は思うことにした。

 さて、チケットはあと九枚。第二回は三日後の昼と書いてある。観に行くか悩みながらも、結局行くのだろうなという感じが珍しくしている。

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