小説「きみを わする」7

 男は不安を抱いている。あの雨がよく降った日、男はあの女に触れた。それはやってはいけなかったことなのかもしれない。観劇には禁止事項が付き物だ。写真撮影はしてはいけない、周りに迷惑をかけてはいけない。演者に触れるなんて、もってのほかなのではないだろうか(これが普通の演劇の類なのならば、だが)。決まりを守れなければ退場を命じられる。いつものようにチケットを入れてもあのドアが開かず、中に入れないかもしれない。そしたらどうしたら良いのだろうか。
 そのような心配は全く杞憂で、いつものように何も抵抗なく、あっけなくドアは開いてしまった。
 有架は部屋にいない。初めて誰もいない、いつもの舞台。この部屋にいる人々が感じる、男に対する戸惑いや畏れ、あるいは結束や確認は、今日ここには何もない。あるのは、有架という女の暮らしが続いているということだ。
 寝床の上にある空白のような壁に、青い光が投射されている。間もなく、映像が流れ始めるのを男は見た。
 夏の風景。広くて何もない、土手のような場所がそこには映っている。天気は薄曇り、傘をさしているのか、ぱたぱたと雨音が聞こえる。暑い空気と、それを落ち着けるような雨が混ざり、広がる調和的光景の妙を男は感じた。
 雨の隙間に、鼻唄も聞こえて来る。有架の声か。思えば、初めて会った(遭遇と言ってもいい)時から、有架を恐れるか、男に対して悩むか、そればかりだった。こんなに伸びやかに歌う人だったのかと驚く。
 撮影者であろう男の声が、画面の中でしゃがんでいる有架に話しかける。
「ねえ、もう帰ろうよ。花火大会は昨日終わっちゃったんだから。すごい綺麗なの、見たでしょ?」
「・・・帰らない」
「ここで花火があるのはまた来年だから、ね?」
「嫌!明日も来る!毎日来る」
 有架は笑いながら、強く言った。
「ねえ、何で花火は毎日上がらないのかなあ?」
「んー。ずっと上がらないからこそ、ずっと心に残る、から?かな。毎日だったらきっと、呼吸するみたいに意識されなくなっちゃうはずだよ。消えるからこそ、ずっと覚えていられる。」
 有架は息を吐いて、そして吸った。
「うん・・・分かったような分からないような」
 続けて有架は言う。
「ねえ、今はいつまでも続くと思う?」
「続かないよ」
「そうなの?」
「うん。でも続いてほしいという願いは、きっとどこかに残る。その願いは果たされなくても、忘れられてもいいんだ。形を変えて、何かになって。そういう意味では、続くと言えるかもしれないね。」
「そっか。じゃあ・・・明日はここに来なくていいね。」
「ふふ、うん。だから忘れて、また明日からの楽しい日々に備えましょう」
「明日って、平日だよ?なんでそんなに嬉しそうなんですか」
「なんでだろう、なーんか、ね。はは」
 二人の間を風が一束吹いた。有架は傘を持ち直しこちらを見た。この風はどこへ行くのだろう。私達の心か、それとも身体に吹くか。それとも地球の、私たちの輪廻を突っ切って、宇宙へ吹き上がってしまうか。君だけが知る。
 風に吹かれてか自らの意思か、有架は傘を閉じ、置いた。
 「有架・・・風邪引くよ」
 「うん、気持ち良い。暖かい感じ。こうやってしているのも悪くないよね」
 そして映像の中の有架が何かに気づき、近づいて来る。そしてカメラよりも下の方、撮影者の胸元辺りに手を伸ばし何かをしている。
「あなたの大事な大事な第2ボタン。」
「お。外れやすいんだ。気づかなかったよ。ありがとう」
「ううん」
「はい!これで大丈夫!」
と同時に撮影者の胸をどんと叩き、ああという声とともに映像はノイズになった。すぐにカメラは曇天と雑草の画面になった。叩く強さが度を越していたのか、落としてしまったらしい。有架が映る。カメラを拾い上げ、顔の表情を作った。それは微笑みにも泣き出す瞬間にも見えるような、微細な動きをしていた。
 映像はここまでである。青く照らされた壁を見るともなく見ながら、男はこんなことを思う。
 今までずっと、いつも心の真ん中には丸い穴があったのだ。そこに今は雨のあなたの声がすっと注ぎ込んでくる。充たそうとしても充たそうとしても、少しずつそれは渇いて。自分の涙で埋めようとも思うけれど、何もできずにいつも無理矢理来る朝を待つしかないんだ。
 結局有架はこの日帰ってくることはなかった。男の中で、これは大事な何かとなった。

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