小説「きみを わする」終

 あの日からしばらく経った。男は、柔らかな光の中を歩いている。風は強く、日陰を行く時は、また冬に引き戻されそうになるが、足は止まらない。
 たくさんの坂を昇り、また降りた。ささやかな公園で談笑する家族。団地の駐車場で、ボール投げをする子ども達。澄んだ思考は入り組んだ路地へと行き渡る。
 道に迷いながら、大きな川に辿り着いた。此の岸側も、彼の岸側も見晴らせる、高い土手だ。男の頭の中には、緩やかでシンプルなアンビエント音楽が鳴っている。
 晴れた空には旅客機が飛び、空に水平線を描いて、それをとかすように進んでいく。その線は空の先で何かと交わり、誰かの生活へ、花束のように、届く。男は確かにそれを感じた。
 大きな川の向こうに、自分の街を見る。中に居たり、外から眺めたりしながら、街は形作られる。あの女、私と奇妙な交わりをした女は、どこかにいるのだろうか。もうチケットはなく、あの部屋に入ることもかなわない。でもいつかまた、家のポストに十枚ばかりの招待状が封筒に入って来るのかもしれない。そうでなくても、何でもない小さな道の上で、ばったりと出くわすのかもしれない。そうしたら、何を話そう。あの時のことも、あの時話したかったことも、たくさんある。まずは感謝を伝えたい。そうして、あの演劇の感想を言葉にして、きちんと差し上げたい。

 そんなようなことを思いながら、再びその女のところに行こうとするのだが、そんな場所は初めからなかったのだった。
 そして僕もまた、路地も隈もない、真さらな街になったのだった。

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