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檜原村藤倉地区について(前編)

[寄稿]Pen name: 藤倉かずま-高2, 実務長

このレポートは、振興研創設前の2020年夏、当時中2だった元高校会長の藤倉が、個人研究のまとめとして執筆したものです。紹介されている東京都檜原(ひのはら)村の藤倉地区は、都内にありながら、車道の通じない集落が近年まで大量に残っていた珍しい集落です。殆ど知られていないの東京の姿を、ぜひご覧ください。

記事自体はかなり前のものになりますが、振興研の活動の入口である「興味のある地域について、その生活と地域資源について考える」という観点では、ある程度見本として良くまとまっているのではないかと思いますので、第1回の記事として掲載いたします。
当時の知見には色々と至らないところも見受けられますが、あえて原文を尊重して、明らかな誤りがある箇所以外は手を加えずに掲載しました。「中2の力ならこんなものか」と、温かい目で読んでいただけると助かります




はじめに

 このレポートは、2017年より個人で行っている、檜原村藤倉地区に関する調査によって得られた情報を、この休暇中において再編し、現時点での考察を交えてまとめたものである。公的機関への聞き取りや参考文献の明確化などを行い、以前より収集していた情報に関して正確性を向上させることに努めた。
 このレポートでは、藤倉の地理、産業、交通、日常生活についてそれぞれ章をもうけ、歴史を都度説明しながら共時的に解説した。また、調査は2017年11月から2020年8月にかけて行い、現在も進行中である。調査方法は文献調査・現地調査を基本とし、住民や村への聞き取り調査のほか現地の資料館等も活用した。なお、参考文献は当レポートの末尾に列挙した。

第1章 地理

Ⅰ 藤倉の位置

 藤倉とは、東京都西多摩郡檜原村内に位置する集落の通称である。檜原村は人口2217人(平成31年1月1日現在)の村で、その村域のほとんどは関東山地の中にある。村内の集落は大きく分けて北秋川が侵食した北谷、南秋川が侵食した南谷、両者が合流する東部地域の3つの地域に点在する。両河川は概ね西から東に向かって流れ、村東部にある本宿地内において合流、秋川と名を変えてあきる野市内を流れたのち、多摩川に合流している。
 藤倉は村の北西部・北秋川の源流に位置している。最寄となる武蔵五日市駅から秋川・北秋川沿いを遡行すること約20km、路線バスで50分の行程である。藤倉地区の人口は40世帯68人(掲載者注: 平成31年当時)で、村内でも際だって人口密度の低い場所である。 

▲藤倉地区の位置。図中の青丸が村役場、赤で囲った部分が藤倉地区

※注 檜原村内には鉄道路線は通っておらず、武蔵五日市駅は隣接するあきる野市内にある。

Ⅱ 藤倉区内の地理

▲冬の沢又地区。写真奥が五日市方面。 
▲藤原地区にある廃屋。これも車道と接していない。

 藤倉とは「藤原」「倉掛」(注1)の2つの字を合わせたもので、住所表記において藤倉という地名は存在しない。路線バスの終点である藤倉停留所は地区の南東にあり、ここが藤倉地区の中心で、谷底に十軒余りの家屋がある。地形図には日向平との表記があり、またバス停横に架かる橋の名前は除毛橋であるが、住民はこの地点を沢又と読んでいるので、この報告書においても沢又と統一したい。
 沢又を中心として、北へ流れる惣角沢を約1.5km遡行した地点に総角沢、沢又東の山腹に日向平、北東の尾根台地に藤原、沢又から西へ約1kmの沢沿いに中組の集落がある。中組からさらに西には白岩沢という沢が流れており、沢沿いに茗荷平集落(注2)、中組から西北西に登った標高差250mの尾根台地に白岩の集落がある(注3)
 また、藤原を経由して山腹の歩道を進むと、山腹に点在する住宅を見ることができる(注4)。これらの家々にはアクセスできる車道がなく、かわりに福祉モノレールが利用されているが、これについては後の章で述べる。

▲藤倉の集落のおおまかな位置。図中の青丸が藤倉バス停。

※注1 中組から西の集落は、住所表記上倉掛の字をもつ
※注2 現在は無人化
※注3 中組において、白岩沢に対し北から月夜見沢が合流、沢又で北から惣角沢が合流して北秋川となる。なお、月夜見沢沿いに集落はない。
※注4 こちらも現在は無人である

Ⅲ 地形・地質

 檜原村はその面積の9割が森林で、その最奥に位置する藤倉地区も当然ほとんどが森林である。そのため人々は沢沿いの僅かな平地や小さな尾根台地、さらには山腹の急傾斜地までを生活の拠点としてきた。地区の中心とも離れた山腹に分散した家々については、道路を作るにも急峻であったため、現在も自動車の入れる道は整備されておらず、山道を約1時間半歩かなければたどり着けない集落も存在していた。
『新編武蔵風土記稿』の檜原村の項に、

「北谷はみな厳山にして土地に岩石多し。小岩・笹久保の辺りより西には岩山なくして皆土山なり。南谷は全て土山なり。」

との記述があり、藤倉地区の土壌は主にローム等で構成されていたことがわかる。古くから急峻な山腹を移動や住まいの場として利用し、耕作を行うことが可能であった理由には、土を中心とした地質が影響していたものと考察される。

第2章 産業

Ⅰ 炭焼き

 森林資源の豊富な檜原村は、昔から炭焼きを生業としてきた。檜原産の木炭は白炭とよばれる種類のもので、火持ちが良く重宝された。生産された炭を牛馬の背にのせて尾根筋を輸送し、五日市へ出荷した。住民は市において、炭焼きの対価として商人から食糧や日用品を得ることが多かった。五日市の炭問屋が幅を利かせ、常に安値で買い叩かれていた旨が『檜原村史』に記されているが、耕作、特に穀物の生産に使える平地が少なかった藤倉では貴重な食料源であった。また、炭焼きを主体として五日市は大いに栄え、全国でもいち早く五日市町として成立した。戦時中には燃料の需要が増大し、国から補助を受けるほどの盛況ぶりであった。
 現在、燃料の主役が石油に転換されたことなどを理由に下火となったが、現在でも山には炭焼き窯とみられる横穴が残り、当時の様子を垣間見ることができる。

▲炭竃跡とみられる穴。コンクリートが使用されている。同様のものは檜原村各地でみられる。

Ⅱ 養蚕

 檜原村では江戸時代から養蚕が盛んに行われており、かつては現金収入を得るための手段として貴重な存在であった。檜原村全体での生産量は明治から昭和戦前にかけての時期がピークとなっているが、住民の話によれば、藤倉では戦後に入って養蚕が特に盛んに行われるようになっていたという。地区の旧家(小林家住宅など)でも、養蚕部屋を作るために間取りを変更した例が見られる。しかし、昭和50年代以降、化学繊維の台頭などによる需要の低迷によって飼育数が激減し、現在では養蚕を営む家はなくなっている。

Ⅲ 農業

 急傾斜地の多い藤倉では農業は決して盛んとは言い難いが、地滑りでできた斜面などを切り開き、農業を行っている家もある。以前は稗や粟などが栽培されていたといい、沢又、白岩などでは現在も小規模に野菜作りが行われている様子を見学できるほか、無人化した山腹の家々においても、農機具が残されているのを見ることができる。地形図においても、随所に「畑」の地図記号がみられるが、実際は耕作放棄地となって土の斜面と化した場所も多い。

▲沢又にある小規模な耕作地。なおこの画像は、カメラをほぼ水平にして撮影している。
▲地形図には畑として描かれていた、倉掛にある耕作放棄地。

 檜原村全体に目を向けると、昭和初期に生産組合が設置されたじゃがいも(馬鈴薯)や、南谷に加工工場のあるこんにゃくいもなどの生産が盛んである。これらは “じゃがいも焼酎” や “檜原こんにゃく” といったブランドで販売されている。また、その他にもわさびや紅茶などの生産が行われている。

Ⅳ 林業

 檜原村内における炭焼きと並ぶ一大産業が林業で、村民の生活の糧となってきだけでなく、檜原産の木材が東京の発展を支えてきた歴史がある。江戸時代から御林山という幕府の直轄地として植林が行われた場所もあり、戦後国家事業により植林されたところも多い。また、大火や震災、戦争によって東京が灰燼に帰すと、その度に檜原の林業が大いに活気づいたのは皮肉な話である。藤倉もその例に漏れず、地区の森林のほとんどが植林された針葉樹林である。
 昨今は外洋材の普及や従事者の高齢化によって下火になり、藤倉でも一部で森林の荒廃がみられる。荒廃した森林は土砂災害を誘発する恐れがある。また、最近は「多摩産材」として西多摩地区で生産された木材をブランド化する動きもみられる。

▲荒廃した森林と倒木。
 ▲間伐がされず高密度で乱立するスギ。

Ⅴ 新しい産業

 藤倉地区では、東京都心から約2時間という好立地にあること、また標高が高く比較的涼しいことなどから、きのこの生産が行われている。白岩にある「きのこセンター」では、温度・湿度が厳密に管理された空間の中で舞茸やあわび茸などの栽培が行われており、直売所での販売のほか都心の大手デパートにも出荷しているという。

▲尾根台地に建つきのこセンター。左の建物が「工場」である。


第3章 交通

Ⅰ 以前の交通路

 かつて住民は木炭と食料を五日市まで出向いて取引していたため、以前より交通は大切なインフラであった。炭は主に牛馬の背に載せられて運ばれたが、村を出るまでの移動では尾根道を経由した。この理由として、沢筋が危険であったことに加え、高度感のある道路を馬が苦手としたこと、川が大回りをしていることから距離がさほど変らなかったことなどが考えられる。
 村の中央を貫く浅間尾根では特に交通がさかんで、馬方と呼ばれる運送業者も活躍していた。各地の尾根筋は傾斜が急なうえに鬱蒼としているが、このような場所にも確かに馬上交通が存在していたことは、路傍にある馬頭観音からも垣間見ることができる。

▲山奥深くに残された馬頭観音

Ⅱ 道路

 藤倉地区には村道や林道が住民の生活を支えている。都道としては205号が、役場のある本宿から藤倉を経て山を越えた小河内ダムまで指定されているが、藤倉から北は車の入れない尾根道である。藤倉へ向かう都道は道が狭くカーブも多かったが、下除毛新橋をはじめとする北秋川に沿った桟橋の建設や新道開削の結果ようやく二車線化が完了し、バスが入れるようになったのは昭和50年以降のことである。
 藤倉は北秋川の行き詰まるところにあり、役場方面に抜ける都道がほぼ唯一のアクセスルートとなっている。災害による孤立のリスクが高く、実際に平成15年には台風により大規模な土砂災害が発生しているため、村は藤倉から奥多摩湖へ抜ける新道の建設を陳情している。一部で既に施工されたのち、中止されたため現在トンネルの法面だけ残っているとの書き込みが道路趣味者の掲示板に存在したが、時期が古く信憑性も高くないため、未確認である。

▲檜原村を通る都道の概念図(記事掲載時に追加作成)

Ⅲ 路線バス

 藤倉へ通じる路線バスは、武蔵五日市駅からの西東京バス五18系統で、平日は一日12本運転されている。檜原村内の多くの区間では、停留所以外でも乗降できる自由乗降区間となっている。民間だけでの運行には採算性に難があるため、村が運行費用を補助して本数を確保している状態であるが、乗客は少なく、空のまま走っているバスも珍しくない。
 理由についてはいくつか考えられるが、本数が少なく運賃が高いこと、武蔵五日市駅までの運行で病院等の施設へは乗り換えが必要なこと、そして藤倉バス停から各集落まで距離があることなどが挙げられる。

Ⅳ デマンドバスやまびこ

 藤倉の集落は路線バスの停留所から約4kmまでの範囲に点在しており、また道路の傾斜が急であることから公共交通の空白地域になっていた。これを補うために村が運行しているのが「デマンドバスやまびこ」である。8人乗りのワゴンバスで運行され、藤倉の道路事情に対応している。路線バスに接続するダイヤが設定されているが、乗客が乗車前に電話で予約するシステムとなっており、予約がない場合は運行を行わない。運行は地元の観光バス会社である大谷商事が行っており、運賃は一律100円で、区間内は停留所にかかわらず自由に乗り降りできる。

▲集落に続く道。大型車の離合は困難である
▲発車を待つデマンドバスやまびこ

Ⅴ 福祉モノレール

 車道の通らない集落は、デマンドバスも入ることができないため、代替として村が整備したのが福祉モノレールである。これはミカン畑にある産業用モノレールに類似した小型のもので、都市部で運用されているモノレールとは大きく異なる。車両とレールとの歯車を噛み合わせて登っていくため急坂に強く、45度近い斜度にも対応しているが、速度は時速2km/h程度と遅い。利用者は操作方法の講習を受けた住民に限られ、協力金として100円を納めることになっている。村が総額6000万円をかけて建設したモノレールであるが、現在山上にある集落からは定住者がいなくなったため、ブルーシートがかけられたまま動かされていないのが現状である。
 一方、山上に立つ家屋の中で、国指定重要文化財として観光地化された小林家住宅へは、アクセスのためにモノレールが無料で運行されているが、これは観光客向けに村が整備したものである。

▲福祉モノレールの座席。
▲モノレールの線路。歯車を使って急勾配を登る。
(掲載者注: 写真のモノレールは2021年末に撤去されました)



今回の掲載はここまでです。次回の掲載では、住民の日常生活や、地域にある観光資源・文化財などを紹介します。

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2023.07.01公開
©2021-2023 筑駒中高 地域振興研究会


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