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あなたが生きているだけで、生きていける誰かがいる【空気階段単独ライブ「anna」】

※ライブ内容の核心には触れませんが、モチーフに言及しています。ご注意ください。

 今日、空気階段の単独ライブ「anna」を観た。お金を払ってお笑いのライブを観るのは、まだ数度目だ。というのも、これまで私にとってお笑いとは、テレビでたまたま目にするエンタメのひとつに過ぎなかったからだ。お金を払って、まして特定の芸人の単独ライブを観るなんて、よほどのマニアがすることだと思っていた。

 そんな私がお笑いにハマった。きっかけはコロナだ。世界中の人々たちと同様に、私も目に見えないウィルスから逃れるために、巣ごもりを余儀なくされた。もともとインドア派なので、外に出られないことはあまり苦ではなかったのだが、本を読むのも映画を観るのもさすがに飽きてくる。そんなとき、芸人さんのyoutubeを観るようになり、そこからは荒波に呑まれるような勢いだった。

 コロナをきっかけに世界は変わった。その裏で、日本の、田舎の、平凡なひとりの人間の内側で、世界が変わった。と言い切るのは大袈裟すぎるかもしれないが、私にとってはそれほど大きな衝撃があったのだ。Twitterで能動的に情報を集め、ラジオを聞き、気になる芸人さんのライブをオンラインで見るようになった。一年前の私が聞いたら、信じられないほどの変化だ。

 そんなとき、Twitterで空気階段の単独ライブの感想を目にした。空気階段のネタやラジオに触れる機会は何度かあったが、当初の彼らのイメージといえば、歯がないヒゲのおじさんと、きれいだけどちょっと変わったお兄さんの、なんだか奇抜なネタをする人たち、という何とも大雑把なものだった。そんな空気階段の単独ライブ「anna」は、すこぶる評判が良いらしい。DVDを待たずに配信で観てほしい、価値観が変わる、人生を描いている、泣いた、とお笑いライブらしからぬ意見が毎日のように流れてくる。毎日押し寄せてくるお笑い情報の波に、楽しみつつ溺れていた私の目に、「anna」という、奇妙に明るい灯台が目に入ったのである。

 配信は三日かけて観た。本当は一気に見たかったのだが、そうするにはあまりにも気力が必要だった。劇場でこのライブを観た人たちは、観劇後しばらくは動けなくなったのではないかと、そんな心配をしてしまう。それほどまでに、「anna」は心のの内側に入り込んでくる作品だった。

 エンドロールを観ながら、これはまさに「人間愛」を描いた作品なのだと思った。もちろんお笑いらしく、俗っぽいワードやモチーフも多数登場する。だがそれは舞台装置に過ぎない。彼らのコントに登場している人々は、完璧には程遠くて、どこかが足りず、その行動には矛盾が伴う。高尚と低俗、現実と空想を一つの場所に収めようとして、整合が取れずにあふれてくる。それがとても滑稽で、不器用で、いとおしい。

 現実世界において、私たちは常に矛盾を感じている。コロコロと言うことが変わる上司にいら立ち、善人としてふるまいながら確かに悪意を持つ自分を嫌悪する。矛盾を目の当たりにすることは、つらくて苦しい。しかし、「anna」では人間の矛盾を喜劇として描くことで、その歪さを美しく尊いものに昇華してくれている。

 そんな愛すべき登場人物たちは少しずつ関係性を持ち、先に登場した人物たちを不意に別の視点から見ることがある。現実も同じだ。みんな誰かと繋がっていて、それぞれに違う顔を見せている。みんな、ちぐはぐなのだ。

 後半、ラジオが重要なモチーフとして描かれている。やはりこれが「anna」という作品の根底にあるテーマと、強く結びついたものではないかと感じる。

 私もラジオを聴きながら、どこかの誰かの言葉で笑っている。私がラジオを聴くのをやめたり、相手が投稿をやめたりするだけで切れてしまうような、ゆるやかで脆いつながりだ。それでもその誰かに、勇気をもらうことがある。つらいことがあった日に、くだらない話で吹き出して、急に明日も生きていけると感じる瞬間が確かにある。

 毎日を過ごしていると、人間関係やSNSで深く繋がることに疲弊してしまうことがある。閉塞的な世の中に絶望的な気持ちに襲われてしまうときもある。しかし、どこかの誰かが生きてるだけで、勝手に勇気をもらって生きていける人がいる。誰もが誰かの勇気になれる。必要でない人間など、この世には存在しない。「anna」はそれを教えてくれる、まさに灯台だった。そう思って、やはり私は勝手に救われている。

 「anna」を観て、とりあえず私は明日も生きていける。そんな作品を作ってくれた、空気階段の二人、そして作品にかかわったすべての人たちに、感謝を伝えたい。

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