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ないよそんなの

 ずっと昔。もっと幼かった頃。
 その辺りからもう気づいてはいた。気づいてはいたがどうしようもなかったし、相談するという発想もなかったし、言葉にしたとて周りはいつも優しかったから「そんなことないよ」で私を黙らせてきたが、いくら私の頭が悪くてもそれくらい分かっていたのだ。

 生まれてこの方、私には人としてなんの価値もない。


 著しい共感性の乏しさ、中身を伴わないプライドの高さ、根拠のない傲慢さ、口下手、ものぐさ、空気が読めない、内向的で承認欲求もなければ他人に対して個別に感情を割くことにとてつもなく疲弊する。
 自主性のないマニュアル人間のくせに、表面的にはそれなりに「私はカリスマ性のある人間です」というふりだけはする。
 私はずっとそういう人間で、そういう人間だと理解しているから、せめて他人に与える不快な思いを減らそうと足りぬ頭で考えたせいでどんどん口先だけが達者に育っていった。

 一方で頭の中においてだけは、私はそれはそれは価値のある存在だった。初めて何もないところから世界を構築し、それをイラストや小説にし、そこの住人に名前と設定を与えたのは何歳の頃だったかはもう覚えていない。もしかしたら意識せずとも生まれ持った性質として私は内側に世界を持っていたかもしれない。
 私はそれを誰に言うでもなく心の中でだけ『内包世界』と名付けていたが、大人になってから『箱庭タイプ』とか『頭の中でキャラが喋る』とか様々な呼び方や表現があると知った。

 十代も半ばになればそうした内包世界を切り売りした文章をインターネットに公開した。そうしてできた繋がりもあった。
 私は先ほども記したとおり口先だけは達者になるも情緒としては非常に未熟かつ不安定で、本当のところの目的は相手を不愉快にさせない、相手がそれで喜ぶならそれでいいという以上の意味も理由もない空々しい相手への比喩やキャラクター性を当て嵌める言葉ばかりを吐いていたものだから、今と思えば当時友人と思っていた人間との関係がことごとく破綻したのも当然である。

 私は彼女らが自分をキャラクター視するための言葉を与え続け、彼女らは私の表現を当たり前に消費していった。私が彼女らから言葉をもらうことがあっても、私は興味がなく、不要なものだったから粗雑に捨てた。

 彼女らは時おり私の内包世界や、それを構築するために強く影響を与えた作品に対して無関心や嘲笑と取れる言動をし、それにいちいち動揺し怒りや悲しみを覚えていたものだが、そもそも私が『彼女ら』とひと塊でしかあの頃の友人を認識できていないことが彼女らへの侮辱なのだろう。
 価値あるものに大きな齟齬があり、お互いがお互いに無理解であり、お互いに蔑ろにしていたと思う。もう話をする機会もないだろうが、いまだ尽きない怒りと一緒に恐らくは一生申し訳なさも抱いている。

 そうやって考えて、ある程度大人になって、創作活動をするにしてもしないにしても様々な人がいるのを見て、改めて私には人としてなんの価値もないと思う。
 他人へ嘘はつかずとも心の底からの気持ちや言葉は吐けないし、カモフラージュした表現や常に自分の感情や考えについて半分以下の情報しか開示していないから、他人から私についての認知へ口出しされるとあからさまな不快感を覚える。
 知ってもらおうという努力をしていないくせに『何も知らないくせに』と常に思っている。
 承認欲求や好意、愛情のたぐいは内包世界で完結して、私から切り離されたキャラクターに認められ、場合によっては愛されているから要らない。

 人として、人間として、本当に劣っていて無価値である。

 優しさも思いやりも知識もひとつもない。
 個人という点にフォーカスを当てた私には驚くほど何もない。

 さらに言うなら、これに関しては私自身も悲しく思うことだが、見てくれに関しても『陰キャ顔』『贅沢言わなければ結婚してくれる男くらいは見つけられるんじゃない』と表現される体たらくである。
 姿かたちやいわゆる女性性を揶揄されたり批評されたとて、今のところ恋愛や結婚という関係の形態に乞うてまでおこなう旨味は見出せない。
 ついでにひとつ恨み節を混ぜるならそれを言い放った養父を見て『男はクソ』『義家族はクソ』という価値観が小学生の頃から深く根付いたのだが、いつか私も認識を改める日は来るのだろうか。惜しむべくは養父がまったく自然にそういった言葉を飛ばす人だから、そのように発言したことすら覚えていないであろうことだ。

 私にとって優しい男親の偶像というものはドラゴンやピクシーと同列の存在であるから、どうやら古き良き『女性としての価値、役割』というものも果たせないし自分から率先してゴミ箱へ放ることになりそうで非常に無念である。

 などと考えていると、我がことながら自分に疲れる。
 頭が悪く世間知らずで何事にも無知、人付き合いが不得手で他人と関わるだけで異常に疲弊し、あらゆる能力が人並みより劣っていて、口だけは達者なせいで空っぽな傲慢さだけ膨れ上がって、いい歳のくせに大きな赤ちゃんみたいな気持ち悪い人間性。おまけに顔立ちは不細工でスタイルも悪いくせに些細なセクハラも許容できない。

 驚くほどに何もない。
 優しい人が時おりフォローしてくれるが、私自身がとっくに気づいているよ。せっかく言ってくれたのに申し訳ないが、それら全部何もないよ。
 優しい人が優しいゆえに口にした心にもないことであったとしても、何か私を誤解して本当にそういう長所が存在していると思い込んでいるにせよ、個人として、人として、私は本当にひとつも『良いとこなし』の人間だ。 

 人間誰しも良いところがあると言うなら、残念ながら私は本当の意味でひとでなしに成り下がる。
 それはあまりにも身の置き所がなくなって狼狽えてしまうから、『人間誰しも』の言葉はなるべく避けたい。なにぶん社会福祉に平身低頭感謝して生きさせてもらっている身なもので、人でなくなり人権も剥がれるのはさすがに抵抗がある。

 ではなぜそこまで何もないくせに生きているかと言えば、私には価値も良いところもないが内包世界には価値がある、少なくとも私が見出しているからである。
 私が死ぬなり消えるなりしてしまえばもう内包世界は動かなくなるし、その中の住人も漏れなく終末を迎えることになる。
 それが嫌なので頑張って生き延びるための努力をするし、社会性を得るために他者と繋がりを持つし、やっぱり生きられなかったときの最悪の場合の保険としてインターネットに書いたものを公開し、拙かろうが描いた絵も残しておく。

 その他の存在価値なんて最初からあるわけがない。他人も広義的な意味合いでの『人命』として私の生命活動を尊重してくれることはあれど、私個人の命へ尊厳なんて見出しちゃいないだろう。
 もし私に多少なりとも自尊心があり自分自身を特別大切に思うことがあれば、例えば気に食わない相手をコントロールしたい、一泡吹かせてやると思ったときに自殺をほのめかし相手を脅すこともあったかもしれない。好きな人が焦るのを見たくて自分の命を賭け代にして相手を試すこともしただろう。

 そんなことをしたとてハイそうですか残念ですサヨウナラ、くらいの反応しか想定できない時点で私は私を大事にしていないし、その価値観が物心ついてからずっと覆らない時点でそういう性質を持って生まれてきてしまったのだと思う。

 何も悩み事もない、まだ私が何ひとつ抑圧されたり傷ついたりすることもなく、母と保育園の庇護下でしか世界を経験していなかったとき、『特に何もないけど死ぬことが頭をよぎった』という理由でアパートの二階から身を乗り出したことがあった。
 母から危険性を説かれ叱られた記憶があるが、私は危険性を理解しておらず好奇心に駆られたのではなく、むしろ危険性を理解したうえで希死念慮に駆られた。
 とりあえず死にたくなるという感覚を、他人からの一切の影響もないまま私は抱いていた。
 そのときも、描きたい絵を思いついたから死ぬのを辞めた。
 今、やれ鬱病だ適応障害だと言われて、それ自体はお医者がそう言うのだからそうなのだろうが、希死念慮の理由に関してはすべて都度後付けされている着せ替え人形のお洋服でしかない。
 特に何もなかったとしても紙くず同然に私は自らの存在を捨てるし、それを上回るほど私は内包世界が大切なので、そこに付属している私の存在も、ついでに許容してあげている。

 そうだ、私は最初から最後まで、私のえがく世界の付属品でしかない。
 まず内包世界があり、そこから出力した散文や絵や、キャラクターという枠組みを使って組み立てた架空の人間がいて、それらは豊かだったり優しかったり残酷だったり美しかったりする。
 内包世界が何よりも大切だから死んでいない身からすると、自分自身が嫌われたり見向きもされないことは当然だから別に構わない。しかし内包世界を軽んじられることが怖く、表現を否定されることが怖く、完成させたものを嗤われることが怖い。
 本当にそれが怖いから、私が心身ともにまったく健康で数年先まで想像しても自分が死ぬ可能性が著しく低いのであればインターネットになんて公開しない。
 これは今現在関わりを持ってくれている友人や母に対して常々零してはいるが、批判されることが怖いので賞賛も求めない。褒めなくて良いから罵らないでほしいし、馬鹿にしないでほしい。

 思えば他人の大切なものを蔑ろにしてはいけないとどこかで聞き、それをずっと意識してきた。
 最低限、共感できず理解できずの不完全極まりない聞き手にしかなれずとも、相手の語る『好ましいもの』『尊く思うもの』を否定せず、それについての言葉に耳を傾けることだけは守ってきた。
 しかし私に対してそれをおこなう相手は今までの人生で出会ってきた中でとても少なく、それは私の唯一の怒りであり、私が他人に求めた最低限もまたそれであったから、ひどく恨んだり憎んだりもした。
 どうあれ何かしら傷つく羽目になるから自衛行為としてSNSでの独り言を除きそういった話題を出さなくなってふと冷静になってから考えると、でもまあそれもまた当然かと思う。
他人から見れば浅学非才の私から出力された粗末な文章や絵と、無二のセンスを持つ天才が描いた長く深く愛される漫画や、知見の深い作家が何年も構想を練り完成させた超大作の小説を同列に語るのは、さすがに無理のある話だ。

 創作者の私としてあるのは文才でも画才でもない。それらについても私は欠片も持っていない。
 私にあるのは、自分の中にあるものを自分から切り離し、愛す才能だけである。
 だから、自分が愛している世界をできるだけ馬鹿にされないために文章や絵の練習をする。
 内包世界が最低限回るように勉強もする、住人が生きるために必要なら取材にも行く。
 人間としては何もないが内包世界のために存在しているシステムのひとつと思えば自分の存在に納得がいくし、スムーズに『そのために死なない』という選択をできる。

 罵詈雑言も褒め言葉も、他人からもらう私に関しての印象や表現も、こちらはありがたく思ったり傷ついたりイラついたり様々に感じることはあるが、正直に返事をするなら何を言われても大抵「ないよそんなの」としか言えない。

 もし、これを読んで多少なり面白がってくれる方がいたら嬉しいと思う。ただのクズじゃんコイツと思われたなら、それはそのとおりで返す言葉もございませんとはにかむくらいしかできない。

 もしあなたの周りに知識もなければ知性もない、優しくもなければ気遣いも足りない、健康でもなく健全さもない、良いとこなしでしかも才能すらないくせに楽しそうにしているやつがいるのなら、もしかすると最初から自分に人としての価値も尊厳も認めておらず、他人にすら頼らない自分の中にある何かのオマケ程度に自らを位置づけているのかもしれない。
 他人のことはなんにも分からないが、少なくともそういう人間は実在しているので。

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