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MIU404「久住」について

 久住という人物が在った。
 架空の存在、テレビドラマの中の登場人物。
 2020年に放送された『MIU404』という作品内においての巨悪、無知な若者を食い物にする犯罪者、大きくて暗い虚そのもの。
 折に触れて彼のことを考える。何かを作るとき、描くとき、彼の言い放った言葉が喉に刺さった小骨みたいに体のどこかで痛む。

「俺はお前達の物語にはならない」

 久住はそう言って、それっきり舞台から姿を消した。今こうして彼のことを考えること自体が彼が嫌悪した行為なのだろうか?
 我々は久住の本名を知らない。彼が巨悪になるに至った背景も、生まれ育った環境も知らない。
 億が一、何かの間違いで久住本人に訊ねる機会があったとしても、それは無意味だ。
 久住は我々が納得するストーリーやエピソードをいくつか提示するだろう。そして「どれがいい?」と逆に聞いてきて、私達が納得いくような物語を作り上げてこれで満足かと問うてくるのだろう。

 物語を書くために人間ひとりを作り出して、没にして、没にした数々の中から要素をツギハギして人間を作り直して、そのたび考える。
 物語のために死んで、あるいは物語のために生まれることすらできずにいる人間を弔う方法はあるのだろうか?
 もし、登場人物に物語の一部であることを拒絶されたら逃がしてやれるだろうか。
 そして反対に、現実に存在する誰かの人生を、事件、ニュース、果てはネットミームや○○構文なんかで消費して来年には忘れるような『誰か』を、私はいくつ思い出すことができるだろうか。

 誰かの言葉や姿を借りた表現がごった返す洪水みたいな今現在の中、久住の言葉がずっと引っかき傷みたいになっている。
 消費文化は致し方ない。創作物は作者がどんな思いで描いていようが全ては読み手がどう受け取るかに寄り、そうして受け取ったものは読み手自身のもので作者だろうが好き勝手に踏みにじって良いものとは思わない。
 でも、それを理解しているつもりでも私個人という読み手は作者が心身を削って描いたものはそのぶん真剣に向き合いたい。

 久住についても同様である。
 現実には存在しない人物にこんなことを言うのは変な話だが、私は久住に一個人として向き合いたかった。
 彼を物語として消費したくなかった。
 だから私の中であの作品は終わっていないし、久住はまだ生きているであろうから彼のことを考えてしまう。

 これは私の心構えでしかないが、人間を描く以上他人を消費しちゃ駄目だ。
 ゼロから何かを作ることができないことは特段糾弾されるべきことではないが、他人の言葉を使って何かを表現した気になっては駄目だ。
 私の作品は誰かに読み流されて忘れられても、それは仕方のないことだから構わない。
 ただ私は、何も感じなくなって、せいぜいが茶化してせせら笑う程度しかできなくなるくらいなら架空の人物のセリフひとつにいちいち傷ついていたい。

 それが久住に対する意趣返しになる、と勝手に思っている。
 久住はどうしようもない「悪いやつ」だったが、鬼でも悪魔でもなく人間ではあるのだから、私は個人としての久住を見続けるし久住のことを考え続ける。
 久住へ。一生お前のことを忘れない人間がここにいるぞ、と怒りとも愛ともつかない言葉を添えてこの文章は終わります。

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