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【一幅のペナント物語#1】端折りすぎた「国定公園 日本ライン」

◉臙脂色のベースにオレンジで堂々と描かれた「日本ライン」の文字。その左上に「国定公園」とあるので「国定公園日本ライン」という場所があるのかと思いきや、正確には「飛騨木曾川国定公園の一部を成す日本ライン」なのである。こういう大胆な端折り方は、なんでもありのペナントの世界らしくていい。ちなみに左に天守を覗かせているのは、説明するまでもなく犬山城だ。

◉Wikiによれば「日本ラインは、風景がヨーロッパ中部を流れるライン川に似ていることから、1913年(大正2年)に地理学者・志賀重昂によって命名された、岐阜県美濃加茂市から愛知県犬山市にかけての木曽川沿岸の峡谷の別称」ということなのだが、調べてみると志賀博士は日本ラインの名付け親というわけではなさそうだ。実際は流域を案内された志賀博士が手紙の中で「木曽川川岸、犬山は全く莱因河(ライン川)の風景其儘なりと・・・」としたためたものが、いつの間にやらそんな話になってしまっているらしい。

◉実際、博士の手紙の翌年1914年(大正3年)には犬山通船が「ライン上り」と称して遊覧船事業を開始している。このしたたかさは見習うべきものがあるが、ただこの事業は交通の便の悪さも影響し短命に終わってしまう。代わって1922年(大正11年)から新たに「日本ライン下り」として復活。1927年(昭和2年)の組合発足を機に、全長13kmの渓流美を愉しむ高瀬舟のライドは、人気の観光コンテンツとして成長していった。

◉丁度この頃(昭和2年)に現地を訪れた北原白秋が、当時の川下りの様子を生き生きと紀行に残している

◉この紀行の冒頭に出てくる「鳥瞰図を描くYさん」はおそらく犬山市在住の吉田初三郎。日本を代表する鳥瞰図絵師だ。白秋が手元に持っていた「五色の日本ライン鳥瞰図」が彼の手によるものだとすれば、白秋が船を世話された「彩雲閣」がPRのために作らせたものだろうと推測するのもまた楽しい(笑)

彩雲閣ご案内「彩雲閣を中心とせる日本ライン遊覧名所図絵」 吉田初三郎・画

◉話を元に戻そう。1964年(昭和39年)には全国初の河川美公園として木曽川が国定公園に指定され、1970年(昭和45年)から個人旅行拡大を狙って国鉄が仕掛けた「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンの波にも乗って、「日本ライン下り」は日本全国からの観光客で溢れかえった。先達の皆さんの分析によれば、ペナントの隆盛はこの「ディスカバー・ジャパン」の影響が非常に大きいようだ。ペナントの陰に国鉄あり、なのである。この話についてはまたいつか触れてみたいと思う。

◉まさに黄金時代を迎えた日本ラインだったが、昭和40年代以降、観光客数は徐々に減少に転じていく。これは日本ラインに限らず、全国の”昭和”観光地すべてに見られる傾向だ。ただ日本ラインについては、1993年(平成5年)に死者の出る転覆事故も起こしてしまい、加速度的に集客力を失ってしまった。事業の屋台骨を支えていた名古屋鉄道は、業績悪化を理由に「日本ライン下り」の事業終了を2003年(平成15年)に決定。その後、地元事業者が事業継承し復活させるも、利用者減に歯止めをかけることはできず、2011年(平成23年)の天竜川での転覆死亡事故の煽りも受ける格好で、2013年(平成25年)度に運休となっている。再開はいまだ未定のまま。国民の多くが危険を伴うアクティビティに慎重になってしまった今、当時のままの営業再開は難しいのかもしれない。

◉和舟による川下りとしての日本ラインは姿を消してしまったが、現在もラフティングの形でアクティビティとしては残っているし、川沿いを走る「日本ラインロマンチック街道」や、木曽川中流域観光振興協議会が主催するイベント「日本ライン・KISOGAWA River to Summit」などにもその名は継承されている。


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