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プロ麻雀連盟会長・森山茂和さんを私が応援したくない理由

この記事は、周知の事実を書いたライトな内容です。深い考察とかはございません。
「プロ麻雀連盟」や「流れ論」がお好きな方には、不快な内容が含まれています。


最高位戦八百長疑惑事件

1980年12月24日、『近代麻雀』が主催する誌上タイトル「最高位戦」の決勝で、八百長を疑われたプレイヤーが失格になる事件がありました。

ことが起こったのは、全35試合のうち、27試合目のこと。
1位は田村光昭さん、3位は動物王国のムツゴロウさんでした。

それで、4位の荒正義さんが高い手をテンパイ。
2位の灘麻太郎さんが、そのアガリ牌を出します。

このアガリで、荒正義さんは27試合目のトップを取り、3位に浮上するハズでした。
しかし、荒正義さんは、そのアガリ牌をスルー。灘麻太郎さんからアガらないことを選択したのでした。

結局、田村さんのアガリで27試合目は終了。
その直後、『近代麻雀』の編集長として主催責任者を務めていた岡田和裕さんは、「やめましょう。こんな麻雀見たくない。今年は最高位なしにしましょう」と言いました。

実は、荒正義さんと灘麻太郎さんは師弟関係で、不正行為をしたというのが、岡田さんの見解でした。

そうして、荒正義さん・灘麻太郎さんは失格。
暫定トップだった田村光昭さんが優勝、準優勝はムツゴロウさんと決定されました。


参考図

図

27回戦の開始時点でのトータル(全35回戦)
1位 田村 +164.5P
2位 灘 +17.6P
3位 畑 -31.7P
4位 荒 -42.3P

高め12000(安め5200)のテンパイで、灘さんから出た高めを見逃して、トータル1位の田村さんからのラス牌の直撃に賭けたそうです。
(普通にアガった場合、トップとの差は188.1P。直撃に成功すれば、トップとの差は139.2P……だそうです)(残りは半荘8回)

※なお、南場では流局総連荘というルールで、灘さんは8筒を切っており、9順目のドラ南切りが不自然だという意見もあります。


見逃しについて

いちおう、私の感想も書かせていただきますと……。

この局面の「見逃し」については、リスクとリターンをどう判断するかは、プレイヤーの領分。
悪手だとしても、「多少無理筋だが、ここは差を詰めにいく」と選手が判断したというのなら尊重すべきだと思います。

完全な敗退行為ならともかく、「疑惑」だけで失格になるというのは、あまり近代的な出来事に聞こえません。
岡田編集長は「ルールブックに書かれた文字以上に大事なルールがある」と、「主催者で運営者で審判員」という権限から失格を決めましたが、ちょっと危険な思想だという気もします。

なお、阿佐田哲也先生は、この件について、「表に現れたプレーだけでは処罰の必然性を説明するのがむずかしく、といって心象的背景を持ち出すには確証が乏しい」という見解を示しています。(夕刊フジ 1981年1月18日)


それ以外の証拠

ただ、岡田編集長は、「事件の発覚は荒の見逃しという形であったが、本質は一部プロの人間的な不自然なゆ着、その結果の談合レースである」と主張。
決勝戦の見逃しだけが問題なのではなく、ほかにも不正があったと述べています。

それは、予選の最終節。
4位の荒さんが、5位の田中さんと僅差で決勝進出を争っていた場面。

決勝進出が確定していた灘さんは、荒さんの親番で、自分の1000点のアガリを放棄したのでした。
(その結果、本来なら親が流れていたところ、荒さんは3900をアガって、決勝進出に近づきました)

岡田編集長は、この件こそが「灘・荒に談合ありと判断する物的証拠」だと述べています。

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灘さんは、どう転んでも決勝進出は確実で、大きなトップを取れば、予選1位通過が見えるという立場。
ここで1000点アガってラス目のまま南3局に進めるより、テンパイ料をもらって流局(総連荘)のパターンを期待した方が良いと判断したそうです。


また、岡田編集長は、「談合レースの実態は私の知っている限り4件ある。いずれも当事者から聞いたことなので間違いのない事実である」と主張。
他社のタイトル戦などの話なので詳細は書かないが、「4件のうち2件は荒が当事者」とのことでした。

これについては、『噂の真相』1981年4月号にて、あるタイトル戦で荒さんと他のプロとの談合は「確かにあった」と小島武夫さんが発言しており、否定しがたいです。
(立場的に、小島さんは荒さん・灘さんと一蓮托生の仲間で、そんなウソをつく理由は考えられません)


『近代麻雀』、プロ麻雀連盟を盛大に叩く

この事件を受けて、『近代麻雀』に載っていた灘さんの『スクランブルレポート』と、荒さんの『チャレンヂマッチ』は連載中止。

「本誌の立場は、糾弾することではなく、徹底排除である」と、大規模な荒・灘追放キャンペーンが展開されました。

だんこ

くりーn

当時は、棋士が社会的地位と高収入を確保できたように、麻雀プロも将棋の名人みたいに世間から尊敬される存在にしようと、真剣に目指していた時代でした。

「競技麻雀の社会にジャンゴロはいらない。人格破綻者もいらない」

と、岡田編集長の『近代麻雀』は、灘さんや荒さんを厳しく批判。
2人の味方だった小島武夫さんも、同時に叩かれました。

病巣は灘麻太郎、荒正義、そして小島武夫」
「“3人組”の支離滅裂な言動が目立ちはじめた」


プロ麻雀連盟の発足

一方、1981年1月31日、小島武夫さんは、日本初の麻雀プロ団体の発足を発表します。
その発起人には、荒さんと灘さんの名前もありました。

この新団体は、急に作ったわけではなく、事件が起きる前から準備されていたものでした。
当時の週刊誌を見ると……。

「小島、灘、荒のラインは、もう一つの麻雀専門誌『プロ麻雀』と組んでプロ麻雀協会というものを作ろうとしている。一方古川凱章、田村光昭らはこれにあまり乗り気ではない。このような対立が今回の事件に尾をひいている」(週刊ポスト 1月30日号)

『あれは明らかにイチャモンをつけてきたんです。裏の事情がありましてね』(荒プロ)。その裏の事情とは灘、荒、小島武夫氏らのプロが設立しようとしているプロ麻雀協会にからんでいる、という。この協会の存在が脅威であるために『近代麻雀』側が『タイトル戦を犠牲にしてつぶしにきた』というのだ」(週刊読売 2月8日号)

つまり、『プロ麻雀』と組んで新団体を作ろうとしている荒さん&灘さんに対して、『近代麻雀』が不正行為の濡れ衣を着せて潰しに来たというのが、八百長事件の真相だというのです。

もちろん、岡田編集長はこの陰謀論を否定。
「談合を隠ぺいするための言い訳に、新団体を利用している」
というのが岡田編集長の見解でした。

悪を

小島さん・灘さん・荒さんによるプロ麻雀連盟の誕生は、とにかくそんな感じでした。

そもそも最初に構想したのは岡田編集長で、1973年に、将棋でいう「将棋連盟」や「日本棋院」みたいなものが麻雀にもあると便利だと考えたのがきっかけだったらしいです。
1980年には小島さんが設立に向けて動き出し、9月には灘さんが岡田編集長に「自分たちで作るので、しばらく静観してほしい」と告げていたところだったそうです。


『近代麻雀』、プロ麻雀連盟の崩壊を予言する

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