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ジャンプ50周年企画と55周年企画の変化

※この記事は8月8日に更新しました。マガジンとしては「7月分の記事」のところ、更新が遅れてしまっており、大変申し訳ございません。


前置き

先日、こういうツイートをしました。

この件について、もう少し詳しく語らせてください。

(基本的には上記のツイートと同じ内容で、お気持ち表明を長々するだけの記事です。ごめんなさい)

 

歴史のおさらい

ジャンプ創刊

『少年ジャンプ』の創刊号は、1968年 7月11日に発売しました。

「発行部数は15万部だった。同年7月の各週刊誌の週平均部数を見ると、
少年マガジン……84万4000部
少年サンデー……69万1000部
少年キング……42万7000部」

西村繁男『さらば、わが青春の「少年ジャンプ」』
『COM』1968年7月号(赤塚先生・楳図先生は創刊号で読切)

創刊準備では、手塚治虫先生、横山光輝先生、ちばてつや先生、白土三平先生、さいとうたかを先生……といった方々に、スケジュールの事情などで依頼を受けてもらえませんでした。

「こうなったら、人気漫画家や大家をあてにするのはやめませんか
「中堅クラスでも実力のある漫画家もいるし、新雑誌ということで、思い切って新人を起用するのも、戦略として面白い」

西村本

そうして結局、創刊号から連載したのは、中堅クラス(梅本さちお先生・貝塚ひろし先生)の2人だけ。
「目玉になる漫画がなくて、中堅と新人の寄せ集め」の新雑誌でした。

 

ハレンチ旋風

そして、1968年12月。
永井豪先生の『ハレンチ学園』、本宮ひろ志先生の『男一匹ガキ大将』という新人の連載が同時に始まって……。

「人気アンケートの1位と3位を占め、『ハレンチ学園』は支持率70パーセントで、創刊号以来の驚異的数字を記録」

西村本

この2作品を看板に『ジャンプ』は伸びていきます。

『ハレンチ学園』、『男一匹ガキ大将』を両輪とし、(中略)『少年ジャンプ』は、順調に部数をつみ上げていた。
(1969年)4月後半売りの9号で27万部発行を決めた時、40万部で足ぶみの続く『少年キング』を抜くのは、時間の問題と誰しも思い始めていた」

西村本

1969年6月の「学校読書調査」では、創刊1年足らずの『ジャンプ』が、すでに週刊3誌&学習2誌に次ぐあたりまで来ています。

「ふだん読んでいる雑誌」

それから、1969年7月に発売された14号~15号が、有名な「スカートまくり」のエピソードでした。

1969年14号

15号は、42万部だぜ」
(中略)
「少年ジャンプ」の人気投票は、1000票中800を『ハレンチ学園』が独占、残り200をその他のマンガが争っていた。『ガキ大将』は、その頃2位ではあったが、その獲得票数は、70ぐらいだった。

本宮ひろ志『天然まんが家』

8月11日発売の16号で『少年ジャンプ』は発行部数58万部で、ついに最初の目標『少年キング』を抜き去った。

西村本

と、創刊1年で『ジャンプ』を成功させた最大の立役者は『ハレンチ学園』でした。

『少年ジャンプ』は、スカートをまくりながら『少年キング』をまくったのです。

 

エロと暴力

1969年9月末からは、『男一匹ガキ大将』のアニメ放送が開始。

「アニメも、順調に人気を取り、その勢いに乗って『ガキ大将』は、『ハレンチ学園』と同等に扱われ、凄まじい勢いであおられまくった」

本宮ひろ志『天然まんが家』

そこから『ガキ大将』も『ハレンチ学園』に劣らない戦力となります。

1970年6月の「学校読書調査」では、トップの『少年マガジン』に肉薄。

1968年に創刊して、1970年には少年誌のナンバー2という大成功は、『ハレンチ』と『ガキ大将』によるものでした。

「要するに『ジャンプ』が最初に売れた原動力といったら “エロと暴力” ですよ。永井豪さんの『ハレンチ学園』がエロで、『ガキ大将』は暴力」

戸田利吉郎氏インタビュー(『別冊宝島 70年代マンガ大百科』

8月11日発売の36号では、「100万部突破」を謳っていました。

30号で『ハレンチ学園』第1部が最終回

「創刊後わずか2年5か月で発行部数が100万部に達した。
(中略)
驚嘆すべき浮力を生んだ立役者は、『ハレンチ学園』と『男一匹ガキ大将』であった。これには、だれも異論はないであろう。『少年ジャンプ』といえば、『ハレンチ』と『ガキ大将』だったのだから」

後藤広喜『「少年ジャンプ」黄金のキセキ』

※西村本と後藤本では、ジャンプが100万部に達したのは1970年36号ではなく、1971年3・4号だとされています。 

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