冨樫義博クロニクルの『てんで性悪キューピッド』について
冨樫先生クロニクル
2022年10月~2023年2月に、『冨樫義博クロニクル』という本が発売されました。
たぶん、「冨樫義博展」に関連する展開のひとつかと存じます。
実物はこんな感じで、全8巻のコンビニ本です。
単なる再録本なので、特に読む意味はありません。
ただ、冨樫先生の過去の連載4作品からの再録ということで、1989年の初連載『てんで性悪キューピッド』が表紙の本が令和のコンビニに並んだのが、個人的には嬉しかったです。
この『冨樫義博クロニクル』5巻の表紙のイラストは、1989年に『ジャンプ』の表紙を飾ったものでした。
(「不思議なパイの魅力……」というアオリは、パイとパイを掛けていると思われます)
※この表紙にまつわる逸話
20年ほど前に、『烈火の炎』の安西信行先生が、この表紙の話をしたことがありました。
と、安西先生は『てんで性悪キューピッド』が好きで、表紙になった号を実家に保管していたのを、ばあちゃんが捨てちゃったそうです。
そんな1980年代のイラストが、『冨樫義博クロニクル』の表紙として帰ってきて、2022年のコンビニに並んだという次第です。
『てんで性悪キューピッド』前後の経緯
掘り下げると大変なことになるので、今回は簡単に……。
1986年10月
あの冨樫義博先生も、最初は何の実績もない新人でした。
まず、1986年10月期の「ホップ☆ステップ賞」で最終候補作。
1987年2月
それから、1987年2月期に『ジュラのミヅキ』で佳作。
当時の『ジュラのミヅキ』の評価は、「設定を解説だけで見せている点がつらい」とのこと。
結果的には、のちにこういう方向で成功するのですが……。
「オカルト」はずっと題材にしていくのですけど、この後しばらく『ジュラのミヅキ』とはやや別路線で連載を目指す感じになりました。
1987年9月
1987年9月30日締切の「第34回手塚賞」では、『ぶっとびストレート』で準入選。
この後、1988年~1989年春にかけて、『ジャンプ』の増刊号に『とんだバースディプレゼント』『オカルト探偵団』『HORROR ANGEL』といった読切が掲載されます。
それらが好評で、『週刊少年ジャンプ』本誌の1989年20号にも読切が載りました。(『狼なんて怖くない!!』というラブコメ)
1989年
そして、1989年32号から初連載『てんで性悪キューピッド』がスタートします。
(ラブコメの評判が良くて美少女路線になったのか、男子中学生が美少女と同居するエロ少年漫画でした)
ジャンプへの初投稿から連載デビューまでは、
と、かなり順調なパターンです。
(和月伸宏先生は、冨樫先生より1か月早い1986年9月のHS賞で佳作を取りましたが、増刊の掲載デビューは1992年、初連載は1994年でした)
1990年以降
しかし、初連載『てんで性悪キューピッド』は32週で打ち切り。
その9か月ほど後に、二度目の連載『幽遊白書』で仕切り直しとなります。
『幽遊白書』は最初、「いい話」系のハートフルな漫画という方向性でしたが、人気は微妙。
10週打ち切りは免れたものの、長くは続かなさそうでした。
と、12話~19話あたりは、だいたい最後尾付近に載っていました。
しかし、18話(1991年17号)から主人公が「霊界探偵」になったところ、その新展開で人気が急上昇します。
もしも新展開で人気が上がっていなければ、30週前後で打ち切られていたと思います。
(『幽遊白書』が全4巻の打ち切り漫画になっていた世界線)
ともあれ、「霊丸」という必殺技や、飛影・蔵馬などの人気キャラの登場によって、『幽遊白書』は大ヒット。
それから『レベルE』『ハンター×ハンター』と続いて、現在に至り……。
結果的には、冨樫先生の経歴で唯一うまくいかなかった作品が『てんで性悪キューピッド』という感じになりました。
「ウ冠の富樫さん」の件
冨樫義博先生のペンネームは、最初は「鳥留夜母屋」。
『ジュラのミヅキ』のときは、ウ冠の「富樫」表記でした。
しかし、『ぶっとびストレート』の手塚賞以降は、ワ冠の「冨樫」で通しています。
『てんで性悪キューピッド』のときも、ペンネームは「冨樫」でした。
ただ、2010年の『ヘタッピマンガ研究所R』の「冨樫先生に突撃取材!!」という回で、こういうくだりがありました。
これを読んで、
という解釈をした読者も多いらしいです。
実際には『てん性』より前から「冨樫」で、本当にそのタイミングでペンネームを変えたという話ではありません。
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