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かつて「ウルトラマンの墓」が作られたこと
大変更新が遅くなってしまい、本当に申し訳ございません。
この記事は、8月分の10個目の記事を、9月9日に「追記」の形で更新したものです。
シン・ウルトラマン
シン・ウルトラマンのデザインは、「成田亨氏の目指した本来の姿を描く」「成田氏が望んでいたテイストの再現」を目指したそうです。
2002年に亡くなった成田亨さんが、もしも『シン・ウルトラマン』を見たら何と仰るのか、私には分かりません。
ただ、先日、『シン・ウルトラマン』のLINEスタンプが発売されたのですが……。
![](https://assets.st-note.com/img/1661966828989-DLJPf21V1o.png)
なんとなく、これを見たら成田亨さんが怒りそうな気はしました。
って、私の実際はそんなことないのかも知れませんが、今日は、その辺のことを少し書いてみます。
成田亨さんのこと
成田亨さんは、美術家・彫刻家です。
『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の特撮美術監督を務めて、多くの怪獣などをデザインしたことで知られています。
![](https://assets.st-note.com/img/1662407200130-caVWaRjY3L.png)
![](https://assets.st-note.com/img/1662407210496-cFE4DnsH5Y.png)
![](https://assets.st-note.com/img/1662407255410-0CfsN1GLZv.png)
![](https://assets.st-note.com/img/1662407263736-MOEl6R19KR.png)
……という感じに、コミカライズ版でも、文芸室長の金城哲夫さん、漫画担当の一峰大二さんと並んで、「怪獣デザイン」としてクレジットされていました。
余談:怪獣デザインに関する有名な話とか
たとえば、ウルトラ怪獣でトップクラスの人気を誇るバルタン星人も、成田亨さんのデザインでした。
ただ、バルタン星人については、成田さんご本人は気に入っていないそうです。
「『バルタン星人』のデザインは、あまり気に入っていないんです。あれは構成の飯島敏宏さんの発想が多いんですよ。『ウルトラQ』に出てきたセミ人間に耳をつけてくれと。それから、ハサミを持たせてくれと言われた」
「そんな注文を受け入れると、あんな格好になっちゃうんです。気にいらないですね。僕は」
(成田さんが気に入っているデザインは、ガラモン、ケムール人、ジャミラなどだそうです)
ちなみに、バルタン星人のコンセプトとか諸々は、だいたい飯島敏宏さんが作ったのですが、そちらの著書を読むと……。
「デザイン打ち合わせの段階で、何も知らない僕がバルタン星人のイメージを遠慮会釈もなくぶつけるのを、彼独特のアルカイックな微笑を続けながら受け止めていた成田さんの頭の中には、なんと、ケムール人のボディーであったラバー製のウエットスーツと、別なシリーズで使い終わったセミ人間の頭部の使い回しという、支配人との密約があったのです」
「てっきり新作で造れるものだと楽観していた僕は、みごとに一杯喰わされていたのです。バルタン星人の造形が出来上がって、中に入る俳優に着合わせる段階になって初めて、そういえば、なぜか、美術部の近くで成田さんがセミ人間の着ぐるみを眺めている姿を見たことがあるのを思い出したのです。計られたのです、あの笑顔で、みごとに…」
と、飯島さんとしては、バルタン星人にセミ人間を使い回された件は、成田亨さんに一杯食わされた思い出になっているらしいです。
(一方、成田さん側は、バルタン回監督の飯島さんからセミ人間にハサミを付けてくれと注文されたという認識になってるっぽいです)
![](https://assets.st-note.com/img/1662559877748-lRYeigCHF5.png)
そんなこんなで、『ウルトラマン』関係では、資料を見ても認識が微妙に噛み合わないようなことも多いです。
成田亨さんの怒り
90年代半ばまでの『ウルトラマン』の流れ
ざっと振り返ると、1966年~1968年に『ウルトラマン』『ウルトラセブン』が放送。
1971年に『帰ってきたウルトラマン』が始まって、『エース』『タロウ』『レオ』と1975年までシリーズが続きました。
それから少し間隔があいて、1979年~1980年。
アニメブームに乗じたウルトラマンのアニメ版『ザ☆ウルトラマン』、金八先生のヒットに乗じたウルトラマン+教師ドラマ『ウルトラマン80』が、どちらも微妙な感じで終了。
その後、1996年の『ティガ』まで、15年ほど「ウルトラマンがテレビから消えた」ような時期になります。
円谷プロの社長は、1973年~1995年まで円谷皐さんで、『ウルトラマンUSA』『G』『パワード』などで海外展開を目指したりしているのですが、国内向けの実写テレビシリーズは、1980年から1996年まで空白みたいな感じになります。
円谷英明さんの著書『ウルトラマンが泣いている』によると、「このころの経営陣は、慢性的な持ち出しが続いていたレギュラー番組の制作をやめれば、毎年の著作権、商品化権収入だけで少なくとも二億円は見込めるから、それだけで会社は存続できると言っていました」とのこと。
1992年「真実を語る」
その「円谷皐時代」の終わり近く、1992年の『SPA!』に、成田亨さんが真実を語るという記事が掲載されました。
![](https://assets.st-note.com/img/1662618643892-8DScmSka4s.png)
成田さん曰く、
「円谷プロの関係者さんはちょっとウソがすぎます。『ウルトラマンのデザインは、みんなでチエを出し合って考えました』などと、BSやラジオで円谷皐氏と満田かずほ氏が発言する。
あのデザインをしたのは私です。私は『みんな』という方たちに会ったこともありません」
それから、ウルトラマンのバリエーションが増えていったことについても、次のように仰っていました。
「コスモスとカオスという、デザイン上のテーマを見失ってしまったんです。だからセブンにツノを付けたり、ウルトラマンにオッパイを付けたりヒゲを生やしたりしてしまう」
1993年の「怒りの鎮魂歌」
そして、成田亨さんは、1993年に「ウルトラマンのお墓」を制作。
![](https://assets.st-note.com/img/1662643566764-LSIq8Z1qfG.png)
墓標には、次のような「鎮魂歌」が刻まれていました。
「星から来た勇者
地球人を救った勇者
永遠であれ
君を利用し
金儲けをたくらむ地球人の為に
角をつけたり
髭をつけたり
乳房を出したりしてはいけない
スーツを着たり
和服を着たり
星空に向かってラーメンをかゝげてはいけない
(以下略)」
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