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自分の話を聞いてくれるありがたみ | 人材育成について思うこと

前職のNPOでとある人材育成プログラムに参加させてもらった。そこでの経験が30代の自分の働き方を変えたような気がする。

「新人は黙って聞いていろ」

新卒で入ったのはピラミッド型組織(のほぼ底辺)。最初のミーティングの後に上司に「新人のあなたは黙って話を聞いていなさい」と言われ、そういう立場がしばらく続いたので、もうすっかり自分の意見を持つことも伝えることも放棄する癖がついていた(そもそも意見を聞かれることがないので、それでなんの問題もなかったどころかそのおかげで仕事がうまく回った)。ほうれんそうと根回しと実務をきっちりやって上司の面子を潰さないことが大事だった。
その次の勤務先でもまあそんな感じで、上司の判断や見解を仰ぐことはあっても自分から何か言う聞とはあんまりなかった。たぶんむしろ自分の側から「わたしの意見なんて聞かないでいいです」感を出してさえいたかもしれない。

自分の発言にも価値がある

ところがその人材育成プログラムでは、わたしが自分の考えを述べなければ、チームメイトが越境学習というそのプログラムの目的を果たせない構造になっていた。極端な話、自分の意見がチームメイトと異なっていれば異なっている分、それだけ発言の価値も必要性も高まるような状況だった。(逆に発言しないでいると、チームがどこにも行き着くことができないか暗礁に乗り上げる。)

最初、わたしは客観的な情報提供しかできなかった。自分には意見を言う権利があると思っていなかったし、言えば混乱させると思っていた(理解してもらえないかもしれないのに話をする面倒くささも多少あった)。
でもフィードバックを受けたりみんなが自分の意見を必要としてくれるので、下手くそでも「自分はこう思う」という話ができた。
それは本当にとても晴れやかかつ爽快で、たとえ全員に理解されなかったり、反応がまちまちでもまったく気にならなかった。
いざとなれば意見をはっきり言えるのか!と自分を見直した。非常に価値ある体験だった。

このときのスッキリ感はなかなか忘れられず、自分の話を聞いてくれる環境が期間限定ではなく恒常的だったらどんなかんじだろうと思った。「分かりません」「それでいいと思います」以外に何らかの答えを返せるように、日ごろから考えたり情報収集するだろう、それはどんなに楽しくて自分を伸ばしてくれることだろうと思った。

違う意見こそおもしろい

だからわたしは今でもミーティングで誰かが自分の意見を聞いてくれるととてもうれしい。ありがたい。わたしは舞台制作(特に現場)については経験が浅く、分からないこともズレていることもまだ多いと思う。でも今思ったけどズレていることが価値になる場面もあると信じてよいかもしれない。

そして自分の意見を言うことと同じだけ、仕事の仲間にも意見を言ってもらえるように、自分の余白や緩さや柔らかさを保てるようにしないととも思う。
つまり「あれ、なんか言ってることが分からない」と思ってもスルーせずにとことん聞いてみるということ、その上でやっぱり分からなくても「なんかおもしろいな」と思える余裕をもつことかもしれない。
(それから意見を言わない人がいたとして、間違っても「せっかく聞いてやってるのに」という方向に行かないようにする必要もある。そもそも心理的安全性がなければ発言できない。)

人材育成も育児も、「育てる」っていうよりもやっぱり、本人が本領発揮できるように、「あれ、自分すごくない?」って「自分」を更新しつづけられるようにいろんなチャンスを転がすことなのかもと思う今日このごろ。


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