王国をもう一度見た。
もう一度王国というテーマの写真を見たくて
美術館に足をはこんだ。
作品の場所となったのは男性修道院と女性刑務所。
法と信仰の制限を受ける男と女。
最初見た時に作品の圧力と孤独感に圧倒された。
見終わった後パートナーがももやもやするとその言葉を僕にサジェストしてくれた。
かたや男性は望んで祈りの世界へ
かたや女性は法を犯したから壁の中へ
これを対比させるような構成では無いけど
そこに男性からの無意識の偏見を感じ取れると。
僕は細い手から床にぶちまけられた汚物なのか食事の後なのか?その写真にものすごく打ちのめされていた。
それをもう一度感じる事もあって視点を変えて作品を見てみた。
顔の特徴を出さない撮り方をしている。
と書いてあるが、、、、
女性刑務所の作品にはそうとは思えない作品が多い。
目を写して配慮とは?
目は人を一番現すものでは?
クリェイターは既存の社会概念からとらわれないように努力をして作品を作るもののように思っていた。
もちろんこの作品もそうであったはず。
だけど作者が内包してしまったミソジニーはその時代には理解できないのかもしれない。
刑務所のパーマネントの景色を以外に思ったのか作品になっている。
その続きとして
白髪交じりのパーマネントをバックから撮った作品がある。
そこだけを見ていたら
そこだけを捉えたら本質はわからない。
その視点が、、、、ボロボロのうちわに届かない。
他の作品に有るパーマネントで手に取っている雑誌が猛烈にくたびれている事なども。
僕はそういう事を再確認したくてもう一度この写真展に足をはこんだ。
男性の視点は女性の視点にはなれないのか?
女性の写真家が同じテーマでこれを撮ったらどう写るのか。
こういうことを噛みしめてる。
母親が最近無くなったからこそ噛みしめてる。
母はその地域では誰も叶わない秀才だったと、、、
だけどその母は大学には通わせてもらえなかった。
そういう事を置き去りにして手放してこれは素晴らしい作品だとはもう思えない
写真としてはものすごいものだとおもう。
けどもやもやするよ
そして改めて第二部をみていたら猛烈に悲しくなった。
檻は2つある罪を償う檻と女性としての檻
その事に作者は気づいていない
だけど写真は正直だから映し出している。
そして修道院の人たちの目は写されていない。
そういうことを再認識した。
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