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戯れ


この気持ちは何だろうか。
私という1人の人間の感じるところを記録に残したところで、誰がいつこれを気にするときがくるのだろう。
この先に出会う人たちが、これを読むと言うのだろうか。
しかし今、一文字先に何を書くのかもわからず、指を動かしている。
この瞬間瞬間が快感であるのだ。
まるで初恋をしているような気持ちに誘われる。
自らの綴る文字に恋をしているなど、馬鹿げて聞こえるが、ここまで自分の脳味噌から流れ出す文章に親しみと、懐かしさと、喜びを感じたのはいつぶりのことだろうか。
「社会の波」と言われているこの人間たちの孤独と自己に対する憎しみの嵐の中で、我々は自らの感じるところを忘れてしまう。
問題なのは「波」に流されることではなくて、この澄み切った静かな世界の中に荒波を作り、身を投げている本人ではないのか。

小さいころ、私は沈黙を聴くことを欠かさなかった。
沈黙は私が荒波を立てることを止めると、遠慮しがちにはじめは物音を鳴らして私の耳をおびき寄せる。
物音と私が戯れるようになると今度は耳だけでなく全身を覆い沈黙は私を飲み込む、頭から肩へと、胸から足へと、ゆっくりゆっくり何かを探しているかのように私を食べていく。
なにが食べられているのか。
感情だ。
沈黙は感情を全身に探し、隅から隅まで食べ尽くす。
いや、もしかしたら探す理由は遊ぶためかもしれない。
沈黙と感情は遊び疲れると互いに寄り添い姿を消してしまう。
まるで失くしたと思っていたパズルのピースが見つかったかのように、まるで昔恋にこがれた人に今さら好きだと伝えられた時のように、空気の中にある1つの穴から漏れ出す空虚さを誰かがあなたのために塞いでくれているかのように、沈黙と感情はそれぞれを引き合わせ、戯れ、満足げに消えていく。
あゝ、こんな私も彼らの遊びに身をまかせ、指をまかせ、この文章を書いている。終わりは私にはわからない。誰にもわからない。
わからないことすら、わからないのだから。
ただ最後にいつも私の胸の底に残して帰るものがある。
それも何だかわからないが、ふっと私を微笑ましてくれるのだ。

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