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無関心ではない尊重へ

最近、嘘くさい自分から脱皮を果たし、嘘くささに反応するセンサーが猛烈に作動している。

ここ数年『尊重する』というワードを切り札のように多用しまくっていた。そこには、大人の都合に翻弄されて学校生活で分断に巻き込まれている子どもらが『尊重し合う』ことで分断の原因となっているあれこれは置いといて、今を楽しんで生きてほしい! という真剣な願いがこもっていたんだけれど、でも毎度自分の心はザワっとしていた。違和感を感じるのは、本当の意味で"尊重する"ことができていないということなんだろうと思う。

私は半人前なので、"尊重する"って自分とは違う考えの人も認めますよという懐の深さを装ってるだけで、自分の世界から切り離してあんたはもう関係ないと無関心でいることと紙一重なんじゃないのだろうかという思いがあった。

以前、リスペクトしている友達が遊びにきてくれて、マスクをパカパカする"尾身食い"といわれる食べ方をしているのを目の当たりにした時に、
(…そ、尊重、する……)
と思いながら、友達を置き去りにしたような気分になって、尊重するってなんと寂しいことだろうかと感じた。それ以来、『尊重する』ことの意味をずっと探していたのだけれど、多分こうじゃないかという自分なりの答えを見つけた気がする。

(※その感覚自体を批判するためではなく、私にとって相容れない感覚に遭遇したひとつの例という意図で書いています)

『尊重する』は、
"あなたにはそれをする自由がある"
を認めるだけじゃ足りなくて、
"私にはそれにNOをいう自由がある"
も認めるし、なんなら
"その自由を発動しない自由もある"
も認めること。

同じ口を挟まないという行動を取るにしても、ただ"私はあなたの自由を認めますよ"と余裕ぶって切り離すより、自分は "NOという自由を発動しない自由を発動する" と心理的に能動的に相手に関わっていくことじゃないかと。そう思うとやっとしっくりきた。

子どもの頃、自分は世界という水の中に混じれない油のように感じて疎外感を募らせていたけれど、相容れないと感じるものを切り離せば切り離すほど世界はモノクロになり、孤独は極まっていった。

でも、自分も人も単色ではなくて、相容れるだけの人も相容れないだけの人もいないんだろう。相容れないなら相容れないままで、自分のキャンバスを開いていく。その方が世界はずっとカラフルで面白いものになるんだろうと思う。

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