見出し画像

危険の檻

 時間がある以上、変化は避けられない。
 結局かのCOVID-19の有無に関わらず、変化の兆しはあった。日本企業の凋落については、経済的な側面から多くの学者が様々な見地から原因をご指摘頂いている。それでなくとも市井の人々が談義する程度には、表層化して久しい。その程度には、日本の経済的盛衰は衆目に値し、そしてもはやそれも過ぎ去った。

 それでも、COVID-19によるシフトという考えに寄ってしまうのは、逃避に近い行動とも取れれば、変化を加速させるトリガーとも捉えられる。無論、それによる幾つもの悲劇は忘れてはならないものであるが、その論議は本来もっと然るべき場所で行うべきであると考え、ここでは資本的な面に目を向けたい。
 つまりは、日本人が変化を拒み続けたことによるQOLのシフトの抑制の要因が何か、一つの推論を備忘録として書き留めたいということだ。

 思い返せばCOVID-19に話題が掻っ攫われる以前は、働き方改革という言葉が漂っていた。勿論、(今では幻と化した)2020年のオリンピックによるインバウンドを見越して ──神頼みして── の、仮初の「豊かさ」を前提とした踊り言葉である。働き方改革とは言っても、それが何をどのようにする改革なのか、などは意味がなく、いつもの言葉先取りの看板でしかなかったが、ともかく日本がQOLの向上という部分を多少は意識していたことは間違いない。では、QOLが上がったとして、それはアベノミクスとしてではない、本来の好景気への策として有効だったのか、それは聊か早い結論だ。

 Uberが無人ドローンを使用した浮遊タクシーを配備する、Google TeamやZoomによる遠隔会議をする、teslaによる全自動運転を享受する、それを最先端で未来的で、「いつかは実現する」と報道されても、実際後の2つは既に世界で実施されているわけで、更に遠隔会議に至ってはCOVID-19の影響でやっと日本でも取り入れる企業がいくつか出てきた。これは革新と言えるのだろうか。正確には「言えた」であり、それは過ぎ去った革新、言い換えれば日常に既に溶け込んでいるはずのものである。
 ところが、日本国内ではそれが起きなかった。起きたとしても、それは「一時的に」「仕方なく」であり、災禍が過ぎれば「元に戻る」。これは既に過ぎ去った革新を受け入れないままであったがために、国内発としての(日本人は国内発が大好きであるから)モノがないから「一時的」で「仕方なく」なのである。だから、日常として元に戻すべきだという行為が働く。時代は変化を伴うから、その行為は時代に逆行しているし、それを知った上で「元の日常」を愛おしく抱きしめて離せない。幼児期に大好きだったブランケットのように。Google Teamによる遠隔HRよりも、顔を突き合せたHRの方に郷愁と青春の芳香を忘れられないから、学校は再開したのである。

 安全は、何よりも大事だ。安全が担保できないものは、生命を脅かす。だから、何よりも安全が確保できていないものは市民の手に渡らせてはならない。大原則である。危険は可能な限り排除しなければならない。
 その意識が日本の製造業を高め、信頼を勝ち取ってきた。やがてその意識は消費者が「当然の権利」として持つに至り、少しの危険要素を見つけては指摘して頂けるシステムが構築された。「市民の声」を供給側はダイレクトに賜り、それをフィードバックすることで、更に危険の芽を刈り取り、除草剤を撒き、やがて芽を出させる土壌を焼き尽くすことで「絶対の安全」を担保できるようになった。盲目なる消費者が望んでやまなかった結末である。
 危険から学ぶことを推奨などできない。別に危険を冒さずとも学習はできる。では、危険が何かを忘れた者が学習をすることはできるのだろうか。

 COVID-19を考慮してもしなくても、日本企業がリスク過敏症である内に進歩はない。BETせず降りることは恥ずかしくないが、その選択が時代の変化を算盤に入れているかは疑問である。安全は大事だ。ただ、その安全が郷愁による安牌としてのものであれば、それは逃避願望が作り上げた幻想の安全でしかない(過剰な安全)。名だたる大企業の重役の方々が、ブランケットの匂いと決別できる日が来るか否か。その答えが、過ぎ去った革新をさも日本初の最先端であると偽証の錦を掲げた彼らであることは間違いない。

 子供はベビーベッドを乗り越えようとし、親をハラハラさせるものだ。勿論、親は子供から目を離さないし、いざとなったら支えてやるだろう。危険とは何なのか、安全を担保するとはどういうことか。そして、日本の企業はいつ、眼前にそそり立つベビーベッドの存在を認知するのだろうか。日本の消費者はいつ、子供がベビーベッドに手を触れただけで激高する自分の情けなさに気付くのか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?