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依存について

 

 毎晩泥酔するまで酒を飲む。
 さほどの危機感も罪悪感もない。ただ体に悪いという事実は翌朝の目覚めの悪さからもわかっているつもりで、多少は加減しようという気ではいるけど、実際のところ量にまったく変化はない。休肝日もない。そのうち痛風にでもなれば懲りて飲まなくなるだろうけど、そう思えば思うほど、痛風こそが到達点でありその到達点までは飲んでもいいというおかしな解釈になって、むしろ飲酒を促すようだ。
 酒の耐久度はおおよそ遺伝で決まると言うけど、僕の場合両親はそれほど酒に強いほうではなかった。だからてっきり自分は酒を飲めないものだと決めこんでいたけど、よくよく考えてみれば父は九州の生まれであり、九州の人間の言う酒に弱いという言葉ほど信用ならないものはなかった。おかげで僕は弱いなりに酒を飲むことができる。
 このところは特に上手い酔い方を習得した(つもり)ので、段階で言えば五つぐらいに分けて自分で加減できる。つまりほろ酔いから泥酔まで。それでも毎晩泥酔するというのはやはり自らそうなろうとどこかで求めているのだろうし、だとしたらそれはある種の自傷行為に似ている。どうしてそこまでして酒を飲むのだろう。それは酒飲みが口を揃えて言うように「日常の嫌なことを忘れるため」というのも理由の一つのはずだ。早い話が気軽な現実逃避の手段なのだ。酔いが回ってくると日常の悩み事も考え事も遠ざかっていき、(悩み事の原因というのは大半その距離の近さにある)輪郭はぼやけて丸くなり、最後にはまるで浮かんだシャボン玉を弾くように消すことができる。もちろん根本的な解決にはなりえないけど、少なくとも酒に酔っているその間だけは嫌なことを忘れることができる。その背徳感は酔っているうちにポジティブな部分だけ抽出され、多幸感に変わる。これは他の何にも代えがたい。これほどたやすく「自分が自分でなくなる」ことができるツールがあって、どうしてそれを活用しないでいられるというのか。
 逆に酒を知る前はどのように夜を過ごしていたのか、まるで思い出せない。その頃は24時間休みなく「自分が自分である」状態なわけで、よくそれで正気を保っていられたな、などとつくづく思う。


 少し話は逸れるけど、以前ブロンテの『嵐が丘』を読んだ時に、そこに登場する人物たちがことごとく病み、発狂し、精神が錯乱する描写に触れて、何だか面喰ってしまった。いくら過酷な環境に置かれたとはいえ、人はこれほど簡単に我を忘れるほど錯乱するものだろうか? そのときの僕は「自分が自分でなくなる」ことはそう簡単には起こりえないものだと、心のどこかで信じていた。けれど酒が身近になった今なら何となくわかる。人は人が思う以上に簡単に「自分が自分でなくなる」ことができてしまうし、アルコールはその補助になるだけの作用がある。
「自分が自分でなくなる」ということは、怖いけど、どうしようもないくらい魅力的でもある。その根底には蒸発的な破壊衝動がある。何もかもどうでもいい、ならいっそのことすべて壊してしまいたい、という。そういう発想は何も病的なものではなくて多かれ少なかれみんな抱えている。そしてそんな心の隙間を埋める言わば緩衝材として、アルコールはうってつけだった。瞬間的に隙間を埋めてくれるし、部分的には修復さえしてくれる。けれど完全に修復することは不可能だから、時間が経てば隙間は再び顔を出し、また亀裂を深めていく。そうやって放置された隙間が心の中枢まで及んだとき、そしてその中枢にちょこんと何かが触れたとき、まるで積み木が崩れるみたいに自分が自分でなくなってしまう。『ノルウェイの森』でいうところの「ボンッ!」。大きなきっかけは必要じゃない。最後のきっかけというのは、本当に些細なものだと思う。
 『サマーフィーリング』という僕の大好きな映画があるのだけれど、この映画は主人公の男性の恋人が突然亡くなってしまうところから始まる。おそらく心不全か何か、その日の朝に行ってらっしゃいと言った恋人が急に命を落とすのだ。そしてこの亡くなるシーンというのが秀逸で、もちろん驚きや怖さもあるけど、それ以上にまず美しいと思ってしまう。その女性は仕事帰りに野原のようなひらけた場所を歩いている。その後ろ姿が引きのカメラで映し出される。天気はいい。そして次の瞬間、まるで充電の切れた機械みたいにプツンと力尽きてその場に倒れこんでしまう。次に映し出されるのは病院で横になる彼女の姿だ。病院に運ばれる過程は一切描かれていない。
 このシーンは少し現実離れしていてどこか暗喩めいてはいるけど、だからこそより一層記憶に残って何か大事なものを見たという気にさせられる。そのシーンを見て僕が思ったのは、きっと人が死ぬときというのは本当にこんな感じなのだろうな、ということだった。死と生はグラデーションであって、死がどこかの弾みで飽和したときに人は死んでしまう。そして死という成分は必ずしも表面化するものではなくて、自分でも気づかぬうちに心身を侵食されていたりする。ちょうどコップの水のように水面張力で膨らんだ死が、溢れかえってしまうきっかけというのはたった一粒の水滴なのだ。最後のきっかけというのは本当に些細なものなのだ。それは死であれ「自分が自分でなくなる」ことであれ。
 長々と書いてしまって話の帰着点を見失いかけているけど、結局何が言いたいかというと、僕はアルコールに依存しています。隙間を埋める緩衝材としてアルコールに頼っています。という風に言葉にすると大仰になるけど、僕はあくまで依存症ではない。やめようと思えばいつでもやめられる、というつもりではいる。けどこんな生活をずるずると続けていたら、いつか笑い話にならないくらい本当に中毒になってしまいそうだから、改めないとなあとぼんやり考えてはいる。


 人は誰しも何かに依存している。その対象と度合いが人によって違うだけの話だ。だから依存というとネガティブなイメージが先行してしまいがちだけど、僕はすべての依存が間違っているとは思わない。付き合い方次第ではいかようにもなる。つまり毒にも薬にもなる。
 人によって依存の形は様々で、物に依存する人もいれば人に依存する人もいる。そのうち特に有名人に依存する状態は、最近「推し活」という言葉にあてはめられて一個の流行りになっている。「推し」という文化はいつもいま一つピンとこないけど、それがなんとなく従来の「おっかけ」や「オタ活」と違うことは何となくわかる。「推し」というのはもっと精神的寄りかかった存在な気がする。大抵の有名人というのは直接会うこともできない、画面の向こう側の人物であるというのに。それはやっぱり依存以外の何物でもない。その人の心のよりどころとなっている以上、それははっきりとした依存なのだ。
 余談になるけど、僕は「推す」という感覚はピンとこないけどこれを「押忍!」に置き換えると、途端に親近感がわくようですっかり気に入っている。電車の中吊広告や街の電光掲示板に「推し」にあたる人物の姿を見かけるたび、僕は心の中で「押忍!」と唱えてみる。すると自分の行為の馬鹿らしさに笑いが込み上げてきて、不思議と元気すら湧いてくる。なるほど、これが「推し活」に嵌る人のメカニズムなのか、とわかったようなわからないようなことを思って一人で納得している。
 僕はあまり特定の人物に依存している自覚はない。それは有名人に対しても身近な人に対しても。もちろん好きな俳優やアーティストはいるが、この人が自分の生きていく上で絶対に必要だというほどの熱狂的な好意を抱いたことはない。もし表舞台から姿を消したら寂しいけど、まあそれはそれとして割り切って受け入れることができる。それは身近な人間でも同じで、何だかこういう言い方をするとすごく薄情みたいだけど、やっぱりこの人がいないと生きていけないと思うほど、誰かに依存したことはない。もちろん僕にだって好きな人はいるし大切な人もいるし感謝している人もいる。そしてその人があるときふらりと猫のようにいなくなって、僕のもとを離れてしまったら、それはどうしたって寂しい。けれど何と言うか、もしそんなことが起こっても僕は相手を恨むことはないだろうし、苦節を経て最終的にはそのショックも乗り越えられると思う。何だかあまりに飛躍した過程だけど、僕は大まじめにそう思う。
 どうして特定の誰かに依存しないかというと、それは依存した相手が簡単に自分を裏切るかもしれないからだった、それを心のどこかで恐れているからだった。寄りかかる先が頑丈な壁であれば話は違うけど、人は急に姿を消したり、裏切ったり、自分を傷つけてきたりする。そんな不安定な相手に依存するなんてどう考えたって馬鹿げている。けれどそれでも誰かに寄りかかってしまいそうなときというのはあって、そんなときはどうしたことか、絶対に自分を裏切らない相手というのを求めてしまう。あるいはこの人だけは絶対に自分を裏切らないと、自分を騙して寄りかかってしまう。


 ただあえてこれまでに依存してきた人物を挙げるとするならば、それは人の成長過程として当然のことなのかもしれないけど、やっぱり両親、あるいは家族ということになる。子どもは一人では生きていけないし、だからこそ家族に依存するのは当たり前のことだ。よく言われるように、十分な愛情を受けずに発育過程を経た子どもは、その後精神に何らかの異常をきたす。僕の場合はきっと幸運なことに両親から十分に愛情を受けて育ったし、ほとんど自分自身と混同してしまうほどに家族は身近な存在だった。それは子ども時代においてとても大事な経験だったけど、人はいつまでも子どものままではいられないし、だとしたらいつかは家族への依存を脱却しなければならない。
 そのための物理的手段として僕が選んだのは上京だった。実家を出て、自分の手で生活を確立し、家族がいなくても生きていけることを証明することだった。もちろん上京をした時点ではそこまできっちりした理念を持っていたわけではない。何となく東京に憧れていただけなような気もする。ただその頃、両親に感じていた反発心はどうも反抗期と言うには収まらなくて、あの手この手で打開しようとしたのだけどうまくいかず、一度両親と距離を置くのが一番有効な手立てだと結論付けた記憶はある。ともかく親元を離れないことには始まらない。大した打算もなく僕はそう考えていた。
 学生の身分なので未だに経済的な依存は断つことができていないけど、結果として一人暮らしを始めてよかったと思う。金の切れ目が縁の切れ目、ということわざを前向きに捉えるなら、僕は経済的に自立できたとき、本当の意味で両親への依存を断つことができる。もちろん縁まで切ってしまう必要はないけど、ただ今後も長く続くだろう両親との関係を良好なものにするためには、少なくとも僕にとって依存を断つことは必要不可欠だった。
 人は一人では生きていけない。だからこそ皆、誰かに依存しながら生きている。けれど単独の誰かに依存してはならない、というが僕の持論だ。依存すべきは複数の人物であり、その人数は多ければ多いほどいい。支点が多いほど建物の安定性が増すのと同じだ。だから人は広い交友関係を持つべきだし様々なコミュニティに属するべきなのだ。例え人付き合いが嫌いだったとしても、多少は頑張らなくてはならない。
 壇蜜が結婚したときに「一人でも生きていける自信がついたから誰かと一緒にいることができるようになった」というコメントを残していた。やっぱり人は特定の人物に依存してはならないのだと強く感じる。共依存に陥る二人だけの世界、みたいなロマンスはたしかに尊いけど、そのぶん脆く儚い。それよりはもっとオープンで互いに自立した関係の方が、恋愛だって友情だってうまくいくに決まっている。僕はこの壇蜜のコメントを心に留めておくことにした。


 人に依存する以外にも物に依存する場合というのもある。酒、煙草、ギャンブル、セックス、ドラッグ、リスカ、SNS。僕自身はどちらかというと人より物への執着の方が強い気がする。何より物は基本的に裏切らないのがいい。人は裏切るが物は裏切らない。この安定性というのも、依存するにあたっては非常に重要な項目だと僕は思う。不安定な人や物に依存して得られるものは不安定な精神だけだ。よって出来る限り安定した依存先を探さなくてはならない。言い方は悪いが、ヤドカリができるだけ頑丈な貝殻を住処にするのと同じだ。そして過度な依存はせず、依存先も方々に分散する。これこそ依存をするうえで、ひいては上手に生きていく上で守るべきことだと思う。
 僕の場合は最初に書いた通り、まず酒に依存している。僕としては「嗜んむ」程度のつもりなのだけど、まあこの期に及んで言い訳をしても仕方ないので一応は飲み込むことにする。僕は酒に依存している。そしておそらく煙草にも依存している。これまで何度となく禁煙を試みてはいるけど、いずれも失敗に終わっている。吸わないと発狂するというほどではないけど、まあ道行く人を手あたりしだいにぶっ飛ばしてやりたい気持ちにはなる。煙草との付き合い方はいつも僕を悩ませる。絶対にやめくてはならない理由があるのだけど、どうしてもやめることができないし、本心ではずっと吸い続けたいと思っている。
 もとより僕は煙草というものに憧れを抱いていた。それは僕が憧れていた人たちと、憧れていたカルチャーに属する人たちが、みんな吸っていたから。それは70年代から80年代にかけての東京の東のほうでゆるく栄えていたサブカルチャー。若者たちが無計画に夢を追いかけてその日暮らしのままデカタン的な生活を送る。ヒッピーとも少し違う。僕はその文化に中学生の頃から食らいつづけてきたし、その文化の内側に自分も入りたいと思っていた。そのために煙草は必要不可欠なアイテムだった。


 僕の父は喫煙者だった。多い時期には一日に二箱は潰すヘビースモーカーだった。僕は高校生のときに、父に初めて煙草を吸ったのはいつかと聞いたことがある。高校のときだと父は答えた。父の父、つまり僕から見て祖父にあたる人物の煙草を一本くすねて夜中に吸ったらしい。銘柄はハイライト。最初はこんなもの吸えたもんじゃないと思ったらしいが、そのうち自分でも煙草を買うようになり、様々な銘柄を試し、結局いまはハイライトに落ち着いている。自分が死んだら棺にハイライトを入れてくれとさえ父は言っていた。僕は父の話を聞いてなるほどと思い、その日の夜に父の煙草をくすねて吸った。書いたところで誰にも伝わらないけど、場所は図書館裏の池の前にあるベンチ。今でもありありと覚えている。ヤニクラで頭は割れそうなくらい痛んで危うく過呼吸になりかけながら、まるで自分が大人になったような錯覚に胸を躍らせた。僕にとって煙草は自分が大人であることを示す言わば証明書だった。
 さくらももこは大がつくほどの愛煙家だけど、彼女はエッセイの中で自分が煙草を吸う理由について「ただの暇人からタバコを吸う人に変身することができる」からだと書いている。これは全くその通りだと思う。何もすることがなくてボーっとしているだけでも、煙草をくゆらせるだけで格好よく間を持たせることができる。実際映画で喫煙シーンが多いのは間を作るためだし、間こそが品を演出するものだ。上品な人というのは結局、間の使い方がうまくて欲望に対する動作がスローモーな人間にすぎない。
 僕にしたところでやっぱり煙草はかっこいいものだと信じていたし、煙草を吸えばかっこよくなれるものなのだと信じきっていた。しかしそんな妄想をするたびに頭をちらつくのは煙草を吸う父の姿だ。父は冬の朝にも身を縮めて震えながらタバコを吸っていた。父が僕に教えてくれたのは、煙草を吸うからかっこいいのではなく、かっこいい人が吸うからかっこいいのだということだった。そんな当たり前のことに気づいたときには、僕はとっくに後に引けないくらい煙草に依存していた。
 また人によっては全く異なる意見もある。以前、知り合いの喫煙者にどうして煙草を吸うのかと聞いた。すると彼は、俺は煙草をやめたらもっと危ないものに手を出すに決まっている。だから煙草で済んでいて俺は偉いのだ、と答えていた。あまりに暴論だが、僕は何となく彼の言うことがわかってしまうような気がする。あえて隠すことでもないから書くけど、僕には一時期睡眠薬にはまっていた時期があって、幸い大事にはいたらなかったけど、万に一つのことがあったら取り返しのつかないことになっていた。その睡眠薬の存在がそっくり煙草に移ったのかと聞かれれば正直そんなこともないけど、それでも仮に生涯煙草を吸えない状況に立たされたらより過激なものに手を染める可能性は十分ある。つまるところ何かに依存しないことには生きていけない人たちにとって、煙草への依存を断つことは何の解決にもならない。それは単に矛先が変わるだけの話なのだ。そしてより心身に影響を及ぼす過剰な物に執着してしまうくらいなら、煙草に依存するほうがましだというのも頷ける気がする。
 今年度から僕の通う大学では喫煙所が廃止になった。これは言うまでのなく死活問題である。キャンパスを全面禁煙にすると国から助成金をもらえるという話も聞いたことがあるし、おそらく大学はそれ目当てなのだろうけど、これだけはちょっと勘弁してほしい。確かにこれまでの喫煙所は大学の建物と隣接していて、煙を嫌がる人からすれば苦痛だったと思う。けれどそれは喫煙所をより離れた場所に移転すればいいだけの話であって、喫煙所ごと潰してしまうのは目先の利益しか生み出さない愚策だ。目指すべきは分煙であって全面禁煙ではない。ゴミというのは一か所に集めて蓋をしておけば、みんなが嫌な思いをしなくて済む。
 ただ実際のところ、大学の全面禁煙を機に煙草を控えるようになった人の話もちらほら聞く。僕も明らかに吸う本数が減っているし、一定の効果はあるのかもしれない。立川談志は言っていた。「煙草をやめるなんてのは意思が弱い奴がやることだ」僕も大概意思が弱いたちなので、そのうち本当に煙草をやめられるかもしれない。


 依存を拡大解釈して宗教について少し書きたい。
 依存先として最も歴史と実績を兼ね備えているのはおそらく神様だ。もちろん宗教を依存という枠にあてはめて論じてしまうのは、いかにも暴論ではあるにせよ。
 僕は基本的に無信仰だけど、多くの日本人と同じように何となく神様の存在というのを信じている。いわゆる八百万の神、あらゆるものや出来事に神は住みついていて、そこにはそれぞれの縁やゆかりがある。そして僕はお天道様の存在も割に信じていて、常に意識している節がある。日頃の行いはお天道様にまるっと見られていて、いいことをしたらツキが回ってくるし悪いことをしたらバチが当たる。道にごみを捨てたりしないのはモラルのためというよりはむしろ、それをどこかでお天道様に見られていると意識しているからだ。きっと人はそれぞれそのような清潔感を持っていて、それを形作るのが結局信仰心なのだと思う。そういう意味では僕だって神様を信じる。たとえニーチェが何と言おうと。そしてその神様の存在というのは、最近は倫理観という便利な言葉に取って代わられて、すっかり人間に手懐けられている。
 僕の中の宗教観(それは本当に些細なものだけど)を形作った、一つのエピソードがある。それは中学生の時に見た、NHKで放送されていた将棋棋士の加藤一二三のドキュメンタリーだ。その番組はひふみんの棋士としての半生を時系列に紹介しながら、合間に現在収録されたインタビューの音声が入る。ひふみんは史上最年少で棋士になり、神武以来の天才と称され、飛ぶ鳥を落とす勢いで勝ち星を重ねていく。しかし昭和45年頃、それまで経験したこともないような大きなスランプに陥る。何をやってもうまくいかない、打つ手に迷いが生じる。当時を振り返ってひふみんは以下のように答えている。
「昭和45年の初めごろに、はっきり言って行き詰まりになったと悟ったんです。どういうことが行き詰まりかと言いますと、将棋の手を決めるときにどういう気持ちで自分が指す一手を決めたらいいかについて、曖昧模糊として吹っ切れないものがあったんですね。満足できる将棋が指せていなかった。それが5年10年続いたので、かなりこれはまずいと思ったんです。そんなときにふと立ち止まってつらつら人生というものを考えたときに、自分のそういった行き詰まりを打開する、飛躍させるには、私は宗教の力が大切だと思ったんです。それで昭和45年のクリスマスに洗礼をうけたんですね」
 画面は変わって、荘厳な大聖堂の中で俯き手を合わせ、祈りを捧げるひふみんの姿が映しだされる。その姿は近寄りがたい空気を漂わせながらも非常に神秘的であって、率直な言葉にしてしまうなら、僕はそれをかっこいいと思ったのだった。あるいは自分もこうなりたいと思うほどに。
 実際のところ神様がいるのかどうかなんてわからないし、仮にいたとしてその神がどれほど願いを叶えてくれるのかもわからない。合理的に祈りの時間を集計して各信者に施しを与えているのかもしれないし、単なる気まぐれで施しを与えているのかもしれない。と僕は訝しんでしまうけど、きっとその発想こそが信仰心の妨げになるのだろう。信仰する者のもとに神は舞い降りる。僕はそのドキュメンタリーを見て、そしてそこに映し出された洗礼を受けたひふみんの姿を見て、自分の中で漠然としていた宗教観が少し固まった気がした。ひふみんは言っている。「父なる神は人の親であるから、絶対に神様は与えないことはない。だから繰り返し繰り返し祈るんです」
 宗教というのは歴史を遡れば数千年、科学の発展とともに存在を否定されながらも辛くも生き残ってきた。今日まで続いているのにはそれなりの理由があり、裏付けがあるに違いない。つまり信仰心を持っていたほうが人類は上手く機能する、少なくともそういう時代があったはずなのだ。その数千年の裏付けは今に信ぴょう性を持たせる。僕が思う依存におけるもっとも重要な観点は安心して寄りかかれるかどうかだ。不安定なものに依存してはならない。そうなったときに宗教くらい安心して寄りかかれるものは他にないんじゃないかと思う。だからこそ人は洗礼も受けるし、熱心に祈りを捧げたりもする。安寧の中で死に着くのはどんな心地なのだろう。


 とまれ長々と自分なりの依存に対する所感を語ってみたけど、考えれば考えるほど堂々巡りでわからなくなってしまいそうだ。
 僕の身近に、依存癖があり依存に関して一々口うるさい人がいる。よくその人と依存についても話すのだけど、自分の意見が今一つまとまらずモヤモヤしていたので、今回こんな形で思っていることを書き起こしてみることにした。
 最初に書いた通り僕は、依存は毒にも薬にもなると思っている。そしてもしそれがその通りなら、どう考えたって薬として用いて自分の生活のプラスにしたほうがいい。そのための必須条件は以下の二つだ。

1依存するものは信頼に足るものでなくてはならない
2一つの物に依存せず、依存先は分散させなくてはならない

 言葉にするといかにもつまらない。けれどこの二つさえ守れば、多少極端な依存をしてしまっても健康は損なわないはずだ。まあ半壊くらいはするかもしれないけど、少なくとも全壊することはない。
 それでも、こんなことを言うと元も子もないけど、危ない橋こそ渡りたくなるのが人間の心理だ。これだけの理屈を理解していても、人は麻薬に手を出したり、危ない男に恋をしたり、叶わない夢を追いかけたりしてしまう。結局のところどれだけ崇高な理念を掲げていても、人は流されるときは流される。だからこそ依存は依存なのだ。ほとほと情けないけど、でもそんなところも含めて、人間! という感じで魅力的な気もする。
 とは言え何事もほどほどが一番だ。


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