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本を書く意味について考える~独立して版元を作り、いま思うこと~

出版社から独立して、インターネット書店で本を出版する版元をつくり、二年余りになる。なんとか三冊作った段階なので、まだまだこれからだが、実際にやってみて思うことはいろいろある。今回はそれを書きたい。

■独立前後に考えたこと

出版社にいた頃、返品在庫がつねに経営のボトルネックになっていた。出版社は新刊点数を増やし、売れる本は増刷して、出荷を増やすことで売上を伸ばそうとするが、それは同時に、大量の返品が帰ってくるリスクを抱え込むことでもある。

業界が成長しているうちはまだ良いが、取次や書店の経営がシビアになってくると、如実に返品が増え、出版社の財務は悪化する。それでも新刊を増やし、どんどん出荷をしないと、売上は伸びない。

ロングセラーを積み上げ、これを書店の棚で管理することが長期のバランスを取るのには必要だが、どうしても、目先の売上が優先されてしまう。ただ、たまにベストセラーが出ると出荷と返品の帳尻があって、ホッと一息つく。

出版業界に入った頃には、業界の売上は右肩下がりに転じていたので、このパターンをずっと見てきた。特に退社前は、出版の流通システムはかなりの機能不全に陥っていることを知る。そのため独立後は、読者が購入する度に一冊から印刷・製本する「プリント・オン・デマンド(POD)」という出版形式を選んだ。それを電子書籍にもする。これなら、返品在庫を抱えることもない。また、せっかく出した本をすぐ絶版にしなくてすむ。

また、出版社にいた頃は、著者に原稿を依頼して本をつくり、書店に流通させ、印税を払ってきた。今はというと、著者が本を書くお手伝いをして、インターネット書店に本を出版・流通させ、制作費をいただいている。些少だけれども、販売収益の一部を印税としてお支払いしている。

編集者は著者が温めてきたテーマを刊行するにあたって、パートナーとして支え続ける役割だ。それは報酬をいただくのに値する仕事と考えた。著者の代表作や転機になる著作をお手伝いすれば、それは、その後の活動(執筆の場合もあるし、事業やライフワークの場合もある)のベースともなりうる。

お金の流れが今までとはちょうど逆になるので、実績のある著者ほど最初は抵抗を感じるだろう。ただ、実際に体験していただければ、納得感があるかどうか、判断いただけると思う。こちらも仕事量や貢献度に見合うように見積もりを出す。そして最終的には、単に安いか高いかではなく、長くいいお付き合いができるかどうかを基準に落としどころを探す。何度もお仕事をさせていただく中で、仕事内容と報酬額についてお互いの合意が成立していけばいいわけだ。

ところで、制作費はいただくけれども、やっていることは、いわゆる「自費出版」とも少し違う。伝統的な出版社が自費出版をやるのは、名のある版元から本を出していることが著者の名刺代わりになるからだ。つまり著者は、ブランディングにお金を出す。聞いたこともないインディーズの版元で本を出しても、あまり権威付けにはならないだろう。

逆に言えば、それでも本を出して下さるのは、そのぐらい表現したいこと、伝えたいことがあるということだと思う。だから、手加減せずに原稿に対するフィードバックをするし、手間暇をかけて、自分の納得のいく本づくりをする。お金を出してもらうからどうこう、という話ではない。

もちろん、本を出して下さるのは、これまでのお付き合いから、新しく版元を作った編集者を応援してくださる面もあると思う。そのことは本当に有り難い。ただ、お付き合いだけで、お金を払ってまで本を出すほど、執筆や出版が楽な仕事ではないのも確かだ。

では、どういうケースで仕事のご依頼があるかと言うと、ぜひ本を出したいのだが、テーマがマイナーだったり、内容が深堀りすぎたりして、出版社の企画会議を通りにくく、編集者も理解してくれないかもしれない。そういう時に、一から表現をお手伝いするのが今の仕事だ。

言うまでもなく、出版社の商業ベースに乗りにくいからと言って、出版の価値がないということではない。大規模な読者を前提とする商業出版のシステムが整ったのは戦後だろうから、それを絶対視しすぎない方が今後の可能性を考えるには良いだろう。本居宣長も宮沢賢治もニーチェも自費で本を出していると聞く。本来の姿はむしろ、こちらにあるのかもしれない。

つまるところ、今の仕事は、売れるコンテンツとして本をつくり、流通させることではなく、著者が本という器を使って何かを表現し、公にするお手伝いをするということである。ただ、そのことを正確にお伝えするためには、今の仕事のプロセスをもう少し詳しく説明しなければならない。

■今の仕事のプロセス

この仕事で最初にするのは、月に一度のペースでお会いして、書きたいテーマについてじっくりお話を聴くことだ。こちらも、聴いていて感じることをフィードバックする。そして、またお話を聴く。少しずつ、メッセージに脈略をつけ、構成を考え、草稿に落とし込んでいく。誰に何をどういうニュアンスで伝えたいのか、おぼろげながらも見えてくる。このプロセスに半年以上かかることも多いが、結構楽しい。話が深まるから、発見が多く、自分のなかに共鳴も起こる。

しかし、そのままスムーズに本になることはあまりない。草稿にしてみたところ、予期しなかったような大きな問題が炙り出されてくる。完成に近づいたと思ったら、急にペンディングになる。ご家族が病気になってしまうこともある。さまざまな理由で前進できなくなる。まるで「これも必要なプロセスだ」とでもいうように、関門が現れるのだ。

正直、ここは苦しい。進めていた仕事がまるで申し合わせたように、全部停滞することもあった。ただ、何もかもダメになるわけではない。半年、一年と待ち続けていると、前進し始めるものが出てくる。この渦中にいると、仕事をしている=物事を動かしているのは「時間」であって、自分ではないなぁと実感する。

■「本当のこと」を表現する

ところで、なぜ停滞してしまうのだろうか。今この文章を書いていても、おそらく似た心境なのだが、心に迷いが生まれるからだ。「こんなことを書いて、大丈夫なのか?」「これでわかってもらえるのだろうか?」「出す意味は本当にあるのか?」結果はどうあれ、自分の心に従って「本当のこと」を書くのか、問われているのだと思う。その意味では、必要なプロセスなのかもしれない。編集者もそれをよく見極め、腰を据えて待つ覚悟がいる。

とは言うものの、「著者の心が定まらない」とやきもきしながら、先が見えない中で待ち続けるのは、こちらも仕事を始めたばかりだから余計不安だし、正直、悩ましかった。

しかし、やるべきことをやっているならば、もはや私が思い悩むことではなく、やるかやらないかは、その方の問題なのだ。それぞれに時期というものがあるからだ。だからこそ、現に一つ一つ言葉で表現するプロセスを経て、葛藤を越え、前に進む方々がいらっしゃる。残念ながら、もとに戻ってしまう方もいらっしゃる。だが、今回はそういうご縁だったのだろう。

もちろん私は、これまでの自分でいる安心感を手放し、人にどう思われるかではなく、自分はどう感じているか、あるがままに書き、空っぽになるぐらいに出しきった、おかげで良い仕事ができたと思う。そう言ってもらえると嬉しい。

自分に嘘をつかないこと、心の声に耳を澄ませ、感じたままを正直に表現することが、その人自身であることだからだ。それがその人の真実だと思う。そのみずみずしさに触れられるのが、私は嬉しい。

このブログで以前、カズオイシグロが『日の名残り』創作の舞台裏についてテレビで語るのを聴いて、思ったことを書いた( https://bit.ly/2vgqRkQ )。私自身それを考え考え、表現しているうちに、自分が編集者になった本当の理由に気がついた。人と心を通わせることに絶望して、活字の世界にこもったのではなく、むしろ、活字を扱う仕事を通じて、深いところで人と心を通わせたかったのだ。

『日の名残り』の執事のように、感情を表に出すと受け容れてもらえず、傷つくかもしれないから、編集者という黒子役に徹し、自分の尊厳を守ろうとしたのだが、本当は、仕事を通してその人の真実に触れること、表現のプロセスを伴走することで互いの心が通じること、それこそ、自分にとって喜びだった。

最近出させていただいたがん医療の本(『日本人に合ったがん医療を求めて』 https://amzn.to/32hNsYR )の著者ががん医療に人生を賭けてきた理由について、あとがきでこう書いている。

「なぜ、私はがん医療に人生を賭けてきたのでしょうか。答えは明らかです。がん患者の方、ご家族の方との出会いとかかわりの中で、語りつくせぬ多くのことを教えられてきたからです。生きるか死ぬかという極限の状況下で、語られ行われることは、互いが裃を脱いで裸の人間として対峙し、共に紡いでいく瞬間、瞬間です。カイロスの時間を感動して真剣に生きている患者さんと、どれだけともに喜び、ともに悲しんできたか、わかりません。医者冥利に尽きる時間をどれほど体験できたかわかりません。
(中略)闘病中のちょっとした出来事が、いつも私を感動させます。
 こんなに素晴らしい体験をさせていただいて、私はもういつ死んでも悔いはないな。それが実感です」

がん医療は生きるか死ぬかなので、重みが違うが、わかる気がした。人と深く交流する、心が通じるという喜びは、それを精一杯やれば、いつ死んでも悔いはないというぐらいのことなのだ。人の心と通じることで自分の心とも通じ、自分の心と通じることで人の心とも通じる忘れがたい体験なのだ。だから、この仕事を続けているのだと思う。

もちろん、そんな浮世離れしたことを言っていられるのは、オフィスを借りず、従業員を雇わず、在庫を持たず、自分の生活費さえ出ればいいという最低限のサイズでやっているからだ。会社にいて編集部を預かっていたら、こうはいかない。時間やお金に縛られないからこそ、できることがある。

■どうなるかわからなくても、自分自身は頼りになる

表現のプロセスを経て、葛藤を越えるということは、シンプルにどちらかに片が付くということではない。過去の自分が喪われることを恐れるのも自分であり、その軛から自由になりたいと願うのも自分である。そもそも、どのような結論になるかは、内心の声に耳を澄ませ、実際に言葉で表現してみないとわからない。そこで自分に嘘をつかなければ、自分の本心にも通じる。それは何か大きなものにつながるような感覚がある。

最近、考えたことがある。今、生きている人生がゲームのように、どういう道を歩むのか「設定」を選べるようなものだったとしよう。仮にいま「設定」の選び直しができるとしたら、映画「マトリックス」のサイファーのように「オレは学んだよ。無知こそ幸福だと。マトリックスに戻ったら、お金持ちで有名人……そうだな、俳優なんていいなぁ」などと呟くだろうか。

そうはならないだろう。なぜなら、ゲームを終えて外へ出た時、それで自分が納得できるとは思えないからだ。仮に行きがかりだとしても、今歩んでいるこの道がどこへ通じているのか、行けるところまで行ってみたい。

現代のように、共通前提という共同体の足場が崩れ、コモンセンスが壊れていくと、社会は文字通り、カオスの様相を呈してくる。自然環境もそうだ。もはや予測も制御もできないと、多くの人が感じているだろう。頭で考えてきたこと、当初の計画などもう当てにはならない。そうだとしたら、死ぬ間際にすべてを振り返って自分が人生に納得するために、譲れないことは何なのか。答えはどこにも書いていないから、よく吟味された内的感覚を頼りに自分が歩むべき道を見つける他ない。本を書くということは、何の保証がなくても、この内的感覚をたよりに自分を表現し、心を定めるプロセスであり、本はそれが形として残ったものだろう。それは確かな足場になるはずだ。

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