【連載】ちろうのAKB体験記 第16回 ■100MVPその1

■100MVPその1

2007年4月。AKBヲタになって8ヶ月ほどが経っていた。その時、ぼくにとっての一つの到達点が近づいてきていた。100MVPである。ついに公演を100回見ることになったのだ。8ヶ月で100回はペースとしては早いだろうか?早いといえば早いが、最短であれば3ヶ月程度で到達できる数字である(週末には一日2公演、夏休みには平日でも一日2公演行われていた。一日3公演のときもあった)。週末しか来られないファンだと1年以上かかることもあるので、平均的と言えると思う。100回公演を見たら、MVP特典を受けることができる。

MVPの始まりは、2005年12月のある日。プロデューサーの秋元康氏が劇場に訪れ、突然「公演中、一番頑張ったファンにMVPを与え、出演メンバー全員との記念撮影とサイン入りTシャツをプレゼントする」と発表したのだった。そして一人のファンが選ばれ、本当にその特典を得たのだが、それは大きな批判をされた。そんな特典があるのなら誰もが欲しがるのは当然だし、結局大きな声を出して騒いで目立ったファンが有利で、そういうことが苦手なファンにとっては不公平なのではないかということだった。それはもっともな批判で、その日の夜のうちにその特典は廃止された。そして代わりに「100回公演を見たらMVP」ということになったのだ。

この100回というのは、今考えると絶妙な数字である。途方もない数字に見えながら、毎日劇場に訪れていれば4ヶ月弱で、週末だけ来ていたとしても1年ほどで達成できるし、何より何度も通いたくなる、リピーターを増やす効果がとても大きかった。ちなみにその計算方法は単純に半券を集めてインフォに提出するというものだったが、後から決まって発表されたものだから知らずにその時までの半券を捨ててしまっていたヲタもいた(笑)。ちなみにいうとこの特典のために、半券欲しさに興味のない公演でもチケットを買って結局見なかったり、ヲタ同士で半券を売買するということも行われた。中には、劇場に訪れてから1週間ほどでMVPに到達させる猛者もいた。スタッフから見てもヲタから見ても異常なことだったが、それさえもまかり通る時代だった。お金がなく暇があるヲタは公演を見て半券を売り、お金はあるが時間がないというヲタはそれを買うというように、需要と供給が釣り合っていた。現在はチケットの購入履歴が完全に記録されているので、半券の譲渡は不可能、というか無意味である。

それだけ劇場に通っていればいろんなメンバーに認知される(少なくとも、よく劇場公演に来ている人だと認識される)。しかし、誰推しかということはもしかしたら推しメン以外には知られていないのかもしれない。そんな中、たった一人のメンバーを選ばなければならないこのMVPという権利は強力である。3チーム合わせて50人近くいるメンバーの中から一人を選ばなければならないというのは、一見難しいと思われるかもしれないが、実はそうでもない。100回も劇場に通っていれば、確固たる推しメンがいるものだから、誰に使うかということを迷うということはあまりないのだ。しかしその意味するところの大きさには一抹の恐怖を感じずにはいられない。何しろ誰にもたった一度しか許されない貴重な特典なのである。ミスは許されない。その人がどんな権力を有していても、どれほどの金を積んだとしても等しく一度きり、やり直しは効かないのだ。たった一人の推しメンを指名した時点で、その推しメンへの想いを強烈に示すことになるし、またそれは同時に他のメンバーに対しては「指名しなかった」ことも意味する(だからこそその後に恋愛における浮気や駆け引きにも似た楽しみ方ができてしまうのだが)。100回も劇場公演に通いつめて貯めたエネルギーをたった一人のメンバーにぶつけるのである。こんなに意思の強さを試される場面が日常生活の中で他にあるだろうか。まさか自分にもそれを行使する日が来てしまうなんて。

MVPの特典は、

1、好きな公演に入れる(チケット代は無料)
2、入場の抽選を受けることなく、最優先で劇場に入れる(最前センター席はMVP席などと言われた)
3、公演後、出演メンバー全員と記念撮影ができる(隣には推しメンを配置できる)
4、出演メンバー全員のサイン入りTシャツがもらえる(推しメンから手渡し)

というものだった。ぼくは幸いにもというべきか、「いつ」「誰で」使うのかということを迷うことなく決めていた。それは来るべき2007年5月17日に行われるであろう、小林香菜の生誕公演だった。今ほどチケットを取るのが難しくないとは言え、確実にその公演のチケットが確保できること、最優先で劇場に入れること、推しメンへの好意を示すことなど考えても、その日以外の選択肢はなかった。

唯一の気がかりは、「MVP入場を行使できるのは一日で5人まで」という制限だった。とはいえ当時のAKBヲタの、しかも小林香菜業界というのもまた小さなコミュニティだ。だいたいの熱心なヲタは把握していたし、すでに権利行使済みの人もいれば、まだ100回には及ばない人もいた。いろいろ計算はするものの、それでもたまにヲタ同士の交流をしない隠れヲタがいるので注意が必要だった。その申請は1ヶ月前からできる(厳密には誕生日当日に生誕公演が行われるかは分からないが、「○○の生誕公演」という申込み方が出来た。それくらいの融通は効いたのだ)。それは完全に先着順だったので、4月17日に申請するべきところだったが、ぼくがそれを申請したのは4月21日だった。なぜ4日遅れたかというと、少しだけ半券が足りなかったのだ。これは単に計算ミスだった(笑)。その時にインフォのスタッフに聞いたら、小林香菜の生誕公演への3人目の申請だったらしい。そして結局5人が申請することになり、それは全員顔見知りだった。あの時代に100MVPで指名するヲタが5人いたということは、今考えると大したものである。(劇場には「tirou」という名前の入ったネームプレートが飾られている!)

同時に、生誕実行委員にも参加していた。生誕実行委員とは有志で立ち上がるコミュニティで、メンバーの誕生日が近づいてくると3~4ヶ月前になるとその子を推しているヲタたちによって結成され、生誕公演を盛り上げるための準備をするのである。具体的にはお祝いのメッセージカードを書いてもらって回収したり、当日に客席全員に配るサイリウムを用意したり(劇場全体を同じ色で揃えることによって効果的な演出をすることができる)、応援グッズを作ったり、スタンド花を発注したり、誕生日ケーキを発注したりする(現在はケーキをファン側が用意することはできない)。これらの費用は生誕実行委員が負担するのだ。ぼくは生誕実行委員に入るのは初めての経験だったが、人数は十数人だったから、ファン同士でとても仲良くなることができた(人気メンバーだとその人数が100人近くなり、収拾がつかなくなることもしばしばである)。果たして、生誕公演は小林香菜の誕生日当日に行うことが決まり、その日は平日だったが、夜の公演に向けて昼間から観客に配るサイリウムや指示を書いたチラシを準備するなどした。このようなとき、ぼくは平日の昼間から動ける若いヲタとして重宝された。喜ぶべきことかはわからないが(笑)。

それらの準備はそれなりに手間が掛かり楽なものではなかったが、手紙を書くときとはまた違った、小林香菜を喜ばせるための作業だったからとても楽しかった。そしてその日の夜公演では、推しメンの生誕公演を最前列で座って見ることができるというのはやはり幸せなことだった。入場前の整列をするカフェでサイリウムを配るなどの作業をして、抽選前に生誕実行委員長が拡声器を使って観客全員に向かって挨拶をするのを見守り、MVP入場をする他のヲタと共に劇場内へ。ぼくはMVP席と言われる最前列センター席(2席ある)に座ることができた(皆が知り合いだったから譲り合うような形だった。両隣には共に生誕実行委員で、ぼくの敬愛する先輩ヲタのプリンスさん、キングさんに挟まれた)。そして小林香菜の誕生日当日の脳内パラダイス公演が、いよいよ幕を開けた。。。

(次回に続きます)

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