休むことと逃げること
私の症状は、感情のバグから始まった。
何もなくても涙が出たり、常に1人で仕事をしているような感覚で、被害妄想が止まらなくなった。怒りっぽくもなっていた。
「私のせいで」「私が悪い」「私ができないからだ」
そう思う方が楽だったから、そうやって築いたある意味の自己防衛が結果として自分の心を殺したとも言える。
よく、美食家は幸せなのかと思う。
そんな良いものを食べなくてもカップラーメンでも最高においしいと思う方が幸せではないかと。それと同じで仕事においても、
「自分はよくできる」「うまく回せている」
と思う方が遥かに幸せなのだ。実態はどうであれ。
会社の人でも、「やってやりました」感を出しているだけで大したことないと思う人はたくさんいた。でも、そう思われていようが、本人が「やってやった!」と思っているなら心の保安上、それで良いのだ。
月曜の朝はこの世の終わりと思うくらい絶望的な気持ちで出社した。誰とも話したくないし関わりたくないのに否応なくやってくる。
誰でも抱える、誰もが耐える「社会人の日常」を乗り越えられなくなった自分を弱いと責め、我慢して会社に通った。不眠と情緒不安定で通院していることも誰にも言わなかった。いや、そもそも会社の人と世間話すらすることがなかった。そんなことをしているなら一刻も早く家に帰りたかったのだ。
思えば、そうした会話の遮断も私の症状を自ら促進させていたのだと思う。
家に帰ると明日が来るために食べて眠るだけの日々だった、お風呂に入りながら明日の仕事のことを考え憂鬱で涙が出ることもしばしばあった。
コロナによる外出自粛もあり、休日もほとんど寝て過ごすようになった。この状況を話すこともなく付き合っていた年下の彼氏とも別れた。
抱え込んだ仕事、進まない契約書、上司に相談してもわからないと突き放された。その上、上司には回覧した書類を見てもらえない。「回覧したので見てください」と声をかけてやっと見る。何のための回覧箱。これですら、前時代的だと思っているのに。不必要で低レベルな二度手間が何度となく襲ってきた。
夢にその上司が現れることも増えていった。
お前は秘書みたいに肩ぐらい揉め、俺の世話をしろと冗談でも不愉快なことを言われたこともあった。
いつ、告発してやろうかと思ったが多忙でそんな余裕もなかった。
そして、3月中旬担当テナントのオープン。私の仕事はとりあえずは終わった。残務はあったが、私は逃げるように休みを取った。いや、言葉通り、逃げた。会社からも、仕事からも、東京からも、逃げた。
2021年3月末の2週間の有給。
私は、負けたし、逃げたし、恥ずかしい。
だけど、負けたし、逃げたから、出会えたものがあり救われた「私」もいた。
この話はまた別の機会に書きたい。
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