とある元メイド喫茶常連の忘備録<その31>
※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
早朝の出勤時、自宅で倒れた。前々から昭和気質の上司のかわいがりや体調不良の話は自社の上司及び担当営業には毎日のように報告していたこともあり、上司の一人が自宅アパートに駆け付けてくれた。曰く
「自宅で自殺してる可能性を鑑みた」
とのこと。加えて何かあったら二階のしのぶを訪ねてくれと言ってあった。
上司がアパートを訪ねた際倒れた自分を発見。しのぶの部屋を訪ね事情を話し管理会社の担当に電話して合鍵を持ってきてもらい自宅へ入り、倒れている自分を発見。一一九番通報し救急車で搬送された。原因は過労と心労だった。後日心療内科に赴き休職一年を必要とするという診断書が出された。
時を同じくして、常駐先の現場との間に入っていた会社の人間が自分が毎月提出した勤務表とは別の虚偽の勤務表を作成していたらしい。その虚偽の勤務表は勤務実態と比較して残業時間が大幅に削られていたことが内部告発で判明した。自分が常駐していた現場は六個から十個の机を固めた島がいくつもあり、それを囲むように管理職や取締役の席が配置されていた。監視の為だ。そのうちの誰かが自分がかなり遅くまで残っていることに気づき、周囲に残業時間を記録を指示したとのこと。周囲の人も毎日残業しているわけではないので、ビル常駐のセキュリティまで巻き込み複数人で自分の残業時間を記録していったらしい。少なくとも毎月八〇時間近く残業しているだろうとのことで調べが入り、発覚の運びとなった。もちろん間に入っていた会社ごと契約解除となった。
ちなみに残業は長くても四時間以下で切り上げていただけで仕事は全然間に合っていなかった。何故自分にそこまでの業務が回ってきたのかという事になるが現場の直属の上司は難関資格を取得することが趣味だった。信じられない事に行政書士と司法書士の資格を所持していた。その事実を聞きつけた法務担当が仕事を振り始めてきた。初めはちょっとお手伝いして貰えれば。ぐらいの温度感だったらしい。しかし司法書士に関しては二〇年勉強して合格したらしく、法律関係の知識は相当なものだった。実務の経験はないらしいが、苦戦しつつも最後まで正確に仕事を終えられていたらしい。徐々に難易度の高い仕事を振られるようになった。そして上司がするべき仕事の大半は自分に振られるようになった。自分はほぼ二人分の業務をこなさなければいけなくなっていた。今思うとなんともくだらない理由だ
一連の流れ、最後のひと押しは尾崎氏のせいだと言っても過言ではないだろう。退院後、やりたくはなかったが尾崎氏へ某SNSのメッセージで返事をしなかった理由として一連の流れを簡潔に書いて送った。間違いなく逃げただなんだと必ず追い込みをかけてくるからだ
「それはすいませんでした」
確かこれだけだった。頭に来たので消してしまったことだけは覚えている「はいはいそうだったんですね。なんでそんな話するんですか?」ぐらいの空気感。自分がいくら彼から見て先輩風を吹かせていたどころか台風を生み出し暴風を発生させていたぐらいのいけすかない男だったとしてもだ。
そもそも罪悪感という概念が無く、自己中心で気に入らない人間は目の前から消えてもらうという関わっては負けなタイプの人種だった。
国領氏グループの浅田氏とのやりとりはまだ終わっていない。元メイドと某SNSでやりとりしていたことを某巨大掲示板にばらしたのは未だに自分の仕業と思っている。尾崎氏は今の時代でいう無敵の人に変貌していた。自分を追い詰めるためならなんでもするだろう。今でこそ自分を含め関係ない人を手段を選ばず巻き込み暴走していた。このまま某SNS上でいつまでも平行線の不毛なやりとりがグダグダと続くのか……と考えていた。
仕事のほうでもゴタゴタ が続いた。職場の社長や担当営業には退職し実家へ帰り仕切り直す事を薦められた。直ぐに失業保険が貰えるように退職理由が整理解雇になった。後日盛大な送別会を開いてもらい。暖かく送り出して貰った。せめてもの餞別にと社長のポケットマネーから退職金が支払われた。
ありがたかった。全くの他人の温もりに触れたことのない自分にとってこれほどうれしいことはなかった。
しかし自分は実家に帰る気はなかった。会社の人には嘘を付いてしまった形になってしまうが、自分には信念と目標があった。
自分は母親及び親戚から遠く離れた場所で一人暮らしは反対されており、遠くても名古屋周辺での一人暮らしという自分にとってはまったく意味のないことを強要されていた。自分の実家から名古屋は一時間と離れていないのだが……特に母親は自分を監視、管理したいらしく、それを実行するには名古屋在住がギリギリの距離だからだ。しかし一年仕事が続けば関東で暮らしても心配はないのではないかという父親の提案があり、母親もその条件をしぶしぶ呑んだ。
自分は関東で暮らしたかった。地元にはないメイド喫茶は勿論のこと横浜ラーメン(今の時代でいう所の家系)の食べ歩き、同人誌即売会。行きたい場所、やりたいことが山ほどあった。
志半ばで実家に帰ることは出来ない。一生母親に半端物だと言われ頭が上がらなくなるだろう。ひとまずは一年踏ん張る。当時はそのことしか頭になかった。
話はそれたがひとまずは仕事探しだ。ハローワークへ行き失業保険の手続きを進め待機期間に入った。
こんな時でもしのぶは自分の味方だった。「あたる君の周りの人は他人の事を、お店のことを考えなさいばっかりだったね。後ろから刺されて許しちゃったら今度はもう一回刺されちゃうよ? あたる君は自分で自分を守ったんだから。そっちのが悔い残らないよ。また就職活動だね。失業保険も出るんだったら一ヶ月ぐらいボーっとしたら?」
時間があるので部屋の掃除や散歩で気を紛らわせた。この時点で数え年で二五歳。厄年だった。厄年などただのまやかしぐらいにしか考えていなかったがすっかり先人の偉大さを痛感した。
これからどうするのか先行きが不安だった。仕事に関してはまだ先々の話になる。今焦っても仕方がない。問題は店と店の常連との関係をどうするかだ。某巨大掲示板なんてみんな見ているだろう。店に行った所で自分は常連仲間を嫉妬で売った屑というイメージがどうしてついて回ってしまう。
自分は無実だが有罪になっているのだ。
尾崎氏とのやりとりで自分のメイド喫茶通いモチベはすっかりすり減ってしまっていた。そして事態は誰もが想像しない方向へ進んでいった。
<つづく>
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