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Ringlet the Fairytale 北アメリカ編前書き


■北アメリカ地域の定義

 本作では北アメリカ地方の定義に従い、北米=現在のアメリカ合衆国、カナダ、およびデンマーク自治領グリーンランドとしました。歴史的に名高いマヤやインカの物語は中央アメリカおよび南アメリカに属し、北アメリカ地域の、特に南側の文化にいくらか影響を与えたかもしれませんが、本作では取り扱わないことにしました。
 また、住民の呼称問題、インディアン、ネイティブアメリカン、ファースト・ピープルズ論争、あるいはエスキモー、イヌイット論争には立ち入らず、インディアン、エスキモーに統一しました。(どんな呼び方をされていても、住んでいる人々には変わりがないため)

■中世の北アメリカ

 Fairytaleの想定年代である1300年前後の北アメリカについては、今のところインディアン、エスキモーによる直接の文字記録はなく、はるか後のヨーロッパ人による資料、あるいは口承伝承や壁画や遺跡などからの類推に限られてしまうため正確なところはわかりませんが、おそらく、200年後にヨーロッパ人たちが目にした世界とさほど変わらなかったと考えられます。

・インディアン

 一口に北アメリカ地域と言っても、その面積は2200万平方キロメートル弱に及びます。その中でまずはインディアンの居住地域、北アメリカ地域の極北と島嶼部および北側の一部を除く地域について解説します。最初にインディアンとエスキモーと書きましたが、面積比はともかく(※)人口比では北アメリカ地域の大半の住民はインディアンだったと言っていいでしょう。

 ※グリーンランド(213万平方キロメートル)および北極諸島(142万平方キロメートル)が含まれるため。

 ・社会と生活

 農耕可能な地域、現在のアメリカ合衆国(アラスカを除く)とカナダの大部分では農耕、狩猟採集、漁労で暮らすインディアンが暮らしていました。ある部族は農耕民ですが、隣接する別の部族は半農、また別隣は定住しない狩猟採集民だったりと近場にあっても生活様式は様々で、新たに農耕を始める部族もあれば定住を捨てて狩猟採集に転換するところもあったようです。

 社会も様々で、家族を基本単位とする横につながる社会を持つ部族もあればリーダーを頂点とした階級社会を構築した部族も存在し、一部には奴隷制度すら認められます。

 様々な理由によりインディアンは国家と呼べる規模の中央集権型社会集団を構築しなかったようですが、ミシシッピ文化のカホキアなどはそれに近い可能性があります。

 ・衣食住 食

 続いて衣食住を見てみましょう。

 大前提として、インディアンは暮らしている地域によって、すなわち沿岸地域、大草原地帯、北部の寒冷地域ではそれぞれ食糧事情は異なっていました。

 農耕部族にとって主要作物であるトウモロコシ、カボチャ、サツマイモ、ジャガイモはいずれも中南米原産で、おそらく交易や移動を通じて北アメリカ全域へ広まりました。これらは中世にはすでに定着していたと思われ、特に安定した食を保証し、見た目にもカラフルなトウモロコシ(※)は物語の中でもしばしば重要な役割を担っています。

※今日、トウモロコシと言えば黄色を思い浮かべるが、原産地である中米では青、白、紫、黄といった様々な色があり、儀礼的意味合いを持つ。

 トウモロコシや芋があったにもかかわらず、インディアンは飲酒(酒)文化を持っていませんでした。これは非常に珍しい事例で、トウモロコシや芋は自然環境下でも発酵しますが、タバコを持っていた彼らは酒の力を借りる必要がなかったのかもしれません。(言い換えれば、酒はタバコほど刺激的でなかった可能性があります)

 狩猟民にとって、また近世〜近代インディアンを語る上で欠かせない獲物はなんといってもバッファローですが、バッファローに限らず鹿(エルク)などの大型動物を仕留めることは想像以上に難しかったでしょう。詳しくは後に譲りますが、中世インディアンは馬を持っていなかったため獲物を機動戦で仕留めることはできず、待ち伏せや罠などを利用しなければならなかったはずだからです。それでも、大型動物は肉のみならず皮や骨にも高い利用価値がありました。

 タバコは厳密には食ではありませんが、トウモロコシと並んで神聖な地位に収まっています。インディアンは現在知られるすべての方法、すなわち嗅ぎタバコ、噛みタバコ、喫煙を知っていました。もっとも神聖視されたのは特別なパイプ(いわゆる聖なるパイプ)による喫煙でしたが、現代の我々が主として吸っているタバコ(ニコチアナ・タバクム)ではなく、フィルターもないので相当キツい体験だったと想像できます。

 中世インディアンが広く有していた家畜は犬に限られています。その他、一部では七面鳥も飼育されていたようですが、いずれにしろミルクや乳製品を提供したり、あるいは農地を耕したり輸送や移動のための大型家畜はいませんでした。南米にはラクダ科動物のリャマとアルパカがいますが、これらは北アメリカには伝わらず、原産地である南アメリカでも搾乳は行われていなかったようです。エスキモーが暮らす地域にはカリブー(トナカイ)がいますが、こちらもユーラシア大陸とは異なり家畜化されることはついにありませんでした。

 ・衣食住 衣

 インディアンはそれほど暖かくない地域に住んでいても肌を晒す(=衣服をあまり身に着けない)ことを好んだようです。初期ヨーロッパ人の記録によれば五大湖周辺の部族でも暖かい季節なら、特に男性は半裸か全裸に近い格好でした。西暦800-1300年はいわゆる中世温暖期にあたるため、さらに暮らしやすかったでしょう。

 お洒落には男女ともに気を使っていて、身体に顔料を塗ったり入れ墨を入れ、動物や植物、鉱物を用いて様々なアクセサリを作っていました。これらの行為には、当然お洒落の他に儀式的な意味合いも多分に含まれています。

 ・衣食住 住

 住居は定住する部族と放浪する部族で異なりますが、いくつかの特徴的な建物がよく知られています。定住型で言えば五大湖周辺に住むシックス・ネイションズのロングハウスとプエブロ文化のキヴァを含む日干し煉瓦の建築が、放浪型としてはティピーが特に有名です。

 ただし、定住型部族でも遠征の際にはティピーと同じような一時住居を建てたようです。ティピーは形や名前に違いはあれど、多くのインディアンが必要に応じて作ることがあったと言っていいでしょう。

 ・衣食住 素材

 衣服や移動式住居の素材としては主に動物の皮や樹皮が利用されました。織機を利用していたかどうかの判定は難しく、いくつかの部族では糸を紡いで布を作っていた証拠がありますが、かなり例外的な話でインディアン全体に広まった気配もありません。(現代では羊毛ラグが有名ですが、羊はヨーロッパから持ち込まれた家畜のひとつです)

 その他にインディアンが用いた素材としては銀、銅、骨、石、貝、陶器などが挙げられます。マヤやアステカの代名詞とも言える金はインディアンの文化にはありませんでしたし、陶器もろくろと窯の技術はなく野焼きでした。

 鉄器を持たなかったとする資料がありますが、隕鉄を用いた装身具は見つかっていますので、より正確には製鉄技術を持たなかったとするのが妥当でしょう。いずれにしろ鉄の道具を持たなかったインディアンたちは、必要なシーンに応じて硬い石、鋭い貝、丈夫な骨などを利用しました。

 鏃に使う黒曜石やパイプに用いるカオリナイトなどは特定地域にしか産出しませんが、多くのインディアンに利用されており、広域的なネットワークが存在したことは疑いありません。部族によって言語が大きく異なるインディアンは共通言語として身振り手振りを用いていたという記録があり、実際に全く初対面でもかなりスムーズな意思疎通ができたようです。

 ・コロンブスの交換

 「コロンブスの交換」なる歴史用語はヨーロッパ大陸と南北アメリカ大陸との間における、それぞれの大陸にはなかったモノの移動を指す言葉です。

 ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸へ持ち込んだもっとも影響力のあるモノは病原菌かキリスト教だと考えられますが、インディアンたちにそれと同じくらい影響を与えたのは馬でした。

 南北アメリカ大陸の馬は古代に絶滅していて、ヨーロッパ人が持ち込むまでインディアンは馬を知りませんでした。西部劇には装飾を施した馬を駆るインディアンが登場しますが、中世ではまったく見られない光景です。ヨーロッパ人が持ち込んだ馬は100-200年という短期間でインディアンとって欠かせない存在となり、財産的、神聖的価値を有し、様々な物語を生み出す源になり、生活様式を一変させました。

 インディアンが馬でバッファローを狩る姿は現代でも象徴的に扱われますが、これは馬(と火器)によってバッファローに機動戦を仕掛けられるようになってから確立したイメージです。彼らは近世まで犬より大きな家畜を有していなかったので、運搬、狩猟、戦争とあらゆるシーンで活躍する馬を「大きな犬」と呼びました。

 余談ですが、北アメリカには猫(イエネコ)もいませんでした。
 しかし彼らは馬に夢中になるあまり猫には興味を惹かれなかったようで、明らかにヨーロッパ人との接触後に作られた物語に猫が登場することはまずありません。(誰か知っていたら教えて下さい)

・エスキモー

 高緯度地方の住民、いわゆるエスキモーについては陥りがちな誤解を解くところから始めましょう。学術的意味でエスキモーと呼ばれる人たちが住んでいたのは高緯度地方でもごく限られた地域であり、カナダおよびアラスカにもインディアンが多く住んでいました。エスキモーの縄張りは沿岸地域とグリーンランドを含む島嶼部に限定されていました。大まかに言って北アメリカ地域住民の大半はインディアンであり、エスキモーは少数でした。

  エスキモーとインディアンは戦争状態になることもあり、エスキモー側の資料によれば、彼らはインディアンを蔑称で呼んでいたとあります。ただしエスキモー間、あるいはインディアン間でも戦争は普通でしたから、単純に「エスキモーとインディアンは仲が悪かった」と書くのは早計で、部族間や家族、個人間の友情や敵意、因縁に大きく左右されたと考えるのが自然でしょう。

  エスキモーの生活は当然ながら普通に生きていくだけでも大変でしたが、かなり地域差があり、大雑把に言って東に行くほど過酷でした。すなわち東端のグリーンランドでは木材はほぼ手に入らず、動物の骨と皮、露出した岩石や僅かな金属だけで生活しなければなりませんでしたが、西のアラスカには森林があり、夏場には果実も採取出来ました。

  農耕が不可能な高緯度での食料調達は狩猟と漁労、場所によっては若干の果実採集に限られましたが、獲物は豊富とは言えず、しかも長い冬の間はほとんど調達手段がありませんでした。そんな彼らの主な獲物はトナカイ(カリブー)、キツネ、アザラシ、海鳥などで、漁労は川を遡上してくる鮭や近海のクジラを狙いました。特にクジラは図体が大きいだけでなく、油や骨など食料以外でも高い価値を持っていました。

  移動手段は橇と中小の舟、すなわちカヤック(一人乗り)とウミアック(数人乗り)でした。家畜はインディアンと同じく犬だけで、橇の引手としてだけでなく非常時には食料にもなったと書かれています。

  エスキモーはその厳しい環境と低い人口密度のために特殊な文化を形成し、神話や物語もインディアンとはまったく異なったものになっています。インディアン文化との断絶について、ある資料は「彼ら(アラスカのエスキモー)はベーリング海峡経由でロシア人から喫煙文化を知った」と記しており、これが事実であれば、彼らのタバコに関する知識は地続きのインディアン経由ではなく、世界を一周して戻ってきたことになります。

・アメリカ大陸に住み着いたヨーロッパ人

 最後にコロンブス以前、中世のヨーロッパ人がグリーンランド及び北アメリカ大陸に定住していた事実を追記します。私達が日常的に目にしている日本を中心とした世界地図ではいかにも東の端に位置するグリーンランドですが、ヨーロッパから見ればアイスランドの少し西にあり、また実際にはメルカトル図法で描かれているほど大きくもありません。グリーンランドに入植した中世ヨーロッパ人は「赤毛のエイリーク」というサガで有名ですが、この入植地は1400~1500年頃に全滅しています。エスキモーと混血したかどうかは解りませんが、交流があっても不思議ではないように思えます。

  一方、北アメリカ大陸東岸にもヨーロッパ人が築いた村の遺跡が存在します。おそらく、グリーンランドからさらに西を目指したのでしょう。こちらはエイリークと違ってリーダーの名前が残っていませんが、最も重要な点は彼らがヨーロッパに新大陸のことを伝えなかった(伝えられなかったと書くべきかもしれません)ことです。東岸の入植地はグリーンランドほど過酷な環境ではなかったはずですが、持続的に人を送り込むには遠すぎたのか、インディアンとの戦いがあったのか、こちらも絶え果てています。

 インディアン及びエスキモー文化を見ると、コロンブス以前のヨーロッパ人入植者たちはほとんどなんの影響も与えなかったと断言できます。しかし、そうした人たちがかなりの人数いたことは、もっと知られてもいいでしょう。



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