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卒論って書く意義があるのか?

ゼミに入る意義の半分は卒論にある。これは私の仮説である。私の仮説を反証する元ゼミ生もいた。例えば、かつて、高校時代からやってきたクラブでのJDを続けたいからと卒論を書かなかった卒ゼミはいる。ただ彼は、ゼミの場にはいて、同級生の卒論に貴重なコメントやアドバイスをしていた。

世の中にはライターなる職業がある。書く専門家だ。だけど私は彼ら彼女らを文章力があるとは見なしていない。ライターの多くは時系列で書く文章が得意なだけだからだ。多くのインタビュー記事は時系列でまとめていけば記事になる。だからだろうか、科学的な要素が入るインタビュー記事になると、多くのライターはお手上げ状態になる。時系列でインタビューを書き起こせば済む話ではないからだ。

私たちは時系列の話や記事に常日頃から馴染んでいる。物語がその典型だ。映画やドラマも然り。時系列の話は受け入れられやすい。すんなり入る。だから逆に、時系列に沿わない映画を制作するタランティーノの映画が凄いのだ。

卒論は時系列では書けないジャンルのコンテンツだ。そのコンテンツ制作の訓練をしておくと、社会に出て「ちゃんとしたレポート」が書ける可能性が高まる。時系列ではなく、ある目的が要請する優先順位に従ったものが書ける訓練の場を卒論は提供する。

社会に出て、取引先、提案企業先に行って、時系列のレポートしか書けない部下を、私が上司なら、そこで見切る。できない奴だと。そうならない可能性を高めるためにも卒論は書いた方がいいのだ。下手なライター教室なんかに通うよりも(私が夢チャレでその手の講師を拒否していたのは、その講師たちがライターでしかないからだ。ライターは誰もがなれる。文字起こし能力さえあれば。でもちゃんとした文章(優先順位が肝となる)はその手のライターには書けない*)。

*文章力とは時系列な文章と優先順位(ロジック)が優先する文章を書けるかの幅で測られる。ライターの文章力を低く評価する私のスタンスだ。違うスタンスだと、時系列でしか書けないけど文章力があるとの評価もあり得る。


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