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「沖縄スパイ戦史」が宮古島で生きる人々に語りかけること 2018.11.20

三上智恵監督のドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」の感想です。2018年11月20日、
宮古新報に新聞投稿として掲載されました。

「沖縄スパイ戦史」が宮古島で生きる人々に語りかけること

「どうやってこの島で息子たちの命を守ろうか」
「沖縄スパイ戦史」の試写会でエンドロールが流れる中、そう考え始めた自分がいた。何度も、目の奥が痛くなるような苦しい涙が流れるが、瞬きができない。決して、泣いてすっきりする涙ではない。

3年前の5月、宮古島に陸自のミサイル部隊を配備したいと防衛副大臣が来た日から、私達は「基地があれば標的になる」と言ってきた。しかし、昨年の10月末に千代田での工事が始まり、目の前で基地建設が進んでいくのを見ているうちに、「いや、標的になんかならないかもしれない。それは最悪の場合の話で、実際は何も起こらないだろう。地対艦ミサイルを中国の艦船に向かって発射したり、弾薬庫があるからといって攻撃されるようなことはきっとない。」と無意識に思うようになっていた。

それは、基地ができるという現実と、子ども達を安全な場所で育てたいという矛盾に挟まれた、母親としての生きる術だったかもしれない。

しかし、この映画は私達の肩を揺さぶり、「歴史は証明する。歴史は繰り返す。歴史から学ばずして、私達は何から学ぶのだ?」と語りかけ、「基地があれば標的になる」「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を突きつける。

日本軍のマニュアル「島嶼守備部隊戦闘教令」や沖縄戦で使われた「国内遊撃戦ノ参考」と、陸上自衛隊の最高規範である「野外令」や「自衛隊法」等を比較しながら、自衛隊が日本軍の体質をどこまで引きずっているのかを丁寧に検証していく。現実を直視しなければ未来はない。子ども達の命を守りたければ現実を見ろと、「護郷隊」の元少年兵達の証言が、訴えかけてくる。

陸軍中野学校が組織したゲリラ部隊「護郷隊」の一員として戦った崎本部の久高良夫くんは、15歳で亡くなった。家の裏にある真部山で戦死と記録されているが、遺骨は見つかっていない。お母さんは、ユタと共に亡骸を探し、ユタが「夏の軍服のままで寒がっている」と言えば裏の山でセーターを燃やし、「裸足で山を歩いている」と言えば靴を持って山に入ったという。戦後、仏壇に手を合わせに関西から訪れた「護郷隊」の村上治夫隊長に、良夫くんのお母さんは「ぬーがやーがいきとーが!」、なんでお前が生きてるのか!と掴みかかった。

東村高江の高江洲義英くんは、破傷風から脳症を患ったためか、精神を病み、17歳で軍医に射殺された。義英くんのお母さんは高江の田んぼの側で毎日夕方義英くんの帰りを待っていた。半年ほどして帰ってきた遺骨を前にして、「義英よぅ!義英よぅー!なんでこんな姿になったか?!」と髑髏を抱きしめて泣き叫んだという。同時に三人の子を失った母は、その後精神を病んでしまった。

大きな軍服を着た、まだあどけない護郷隊の少年兵達の写真を見ていると、過去の母親たちの苦しみが自分の中に流れ込んでくる。最終的に160人が戦死した「護郷隊」。映画は、なぜ少年達が死んでいったのか、「なぜ」の部分を解き明かしていく。

この映画が、宮古島で生きる人々にとって、ミサイル配備、弾薬庫建設を良しとするのか、最後の最後の瀬戸際で考え直すきっかけになればと願う。良夫くんのお母さんの声が、義英くんのお母さんの声が、私達の背中を後押しする。宮古島に生きるみんなで選び取りたい。子ども達の命を守る方法を。

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