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真の自由とは

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 する自由もあれば、しない自由もある。始める自由もあれば、止める自由もあ
る。したいことをする自由もあれば、したいことをしない自由もある。自由とは
自分がニュートラルな立場にいて、いつでも主体的に適切なギアを入れることができるということです。もし、一つのパターンにしかギアが入らないとするなら、そのパターンに束縛されているということです。

 お酒を飲むのも、飲まないのも自由です。しかしお酒を飲まずにいられないとなると、それは中毒的になっているのであって、お酒の奴隷になっています。たばこを吸うのも、吸わないのも自由です。しかし吸わずにいられなかったり、止めることができなくなっているとするならば、それはたばこの奴隷です。

 聖書で言う「罪」とは「分かっちゃいるけど止められない」ということです。つまり「奴隷状態」になっているということです。

 聖書にはこうあります。

***自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。ガラテヤ5章1節***

***すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。Ⅰコリント10章23節***

 キリストは奴隷のくびきを打ち砕き、わたしたちを自由にして下さいます。ただそれは「ニュートラルな立場」にしてくださったということであって、良いことしかできない善玉ロボットになったのではありません。善でも悪でもどちらでも転べる立場になったということです。そして全ての事は許されていて、そこから益になること、自分や人の祝福になることを選んで生きるということです。

 人間て不思議なもので、1回選んだことは2回目は選びやすくなります。2回選んだことは、3回目になるともっと選びやすくなります。そのように回数を重ねる度に、ハードルが低くなり、抵抗が少なくなります。これは罪でもそうですし、良いことでもそういう現象がおこります。だから最初の第一歩~第五歩までが大切なのです。

 皆さんは自由なのです。特にキリストを信じる人は全ての束縛から自由になっています。ですから自分の自由を誰にも奪われてはなりません。あなたが主体的に責任をもって自由を使うのです。問題はその自由を何のために使うかです。選び行動するまでは自由ですが、選び行動した結果からは自由にな
ることはできません。必ずその結果を刈り取ることになります。

 真の自由とは、自分も縁ある人たちも、そして神をも笑顔になることを選び取る自由です。

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