10 years, 10 things 〜ヤプリの10年を振り返る〜
はじめに)
こんにちは、ヤプリ創業者・代表取締役CEOの庵原保文です。
ヤプリも10周年を迎えることができました。
創業当時は「まず2年全力でやろう、もしダメでも必ずどこか雇ってくれるよ」と共同創業者たちに言っていました。
起業してから「リビングデッド」という恐ろしいスタートアップ用語を知りました。出資を受けるも事業が成長せず上場などは全く目指せない、だけど創業者がギリギリ食べていけるくらいの売上はある状態です。創業してしばらくはこの「リビングデッド」という言葉が脳裏に入りそうになるのを必死に防ぎ、うまくいかなくても前へ前へ事を進めました。
結果として10年経ち、リビングデッドどころか事業は急成長し、上場もでき、今も成長を続けています。社員は250名を超え、多くの顧客や社員、株主そして家族に支えられて10年を迎えることができました。このタイミングで、私自身の視点からこの10年(創業前の準備からカウントすると12年)を10章で振り返り、次の10年へと繋げたいと思います。
1)iPhone革命
2007年にスティーブ・ジョブスのプレゼンをネットのライブで観ていました。iPod以来、いつもスティーブ・ジョブスのプレゼンを見るのが楽しみになっていました。これは革命だと感じ、翌年の日本発売時には地元吉祥寺のヨドバシカメラで朝5時から並んで初日にiPhoneをゲットしました。
購入前から高い期待値がありましたが、実際に買って触るとその期待値をさらに超えて、これはガラケー終了になるに違いないと確信しました。当時はヤフーでプロダクトマネージャーをやっており、ウェブの企画開発に携わっていましたが、とにかくiPhoneで何かやりたいと思い、後に共同創業することになる佐野にプライベートでアプリを一緒に作らないか、と声をかけました。2010年でした。実際に趣味のスノーボードのハウツーアプリを作り、画面を横にするとスノーボードの動画が流れ、縦に戻すとその解説をテキストでしてくれるという、従来のウェブ開発ではあり得ない新しいユーザー体験で、インターネットが人間にぐっと近くなる衝撃を受けました。
この時、直感的にアプリは凄いことになるなと感じましたが、まだアプリはiPhoneのおもちゃのような存在で、今のようにネット利用時間の9割を占める存在になるとは思いもしませんでした。その革命を作った会社は、一瞬で世界一の企業へと上り詰め、今も不動の地位に君臨しているのは周知の事実です。
(2010年に初めて作ったiPhoneアプリ。ジャイロセンサーを使い、端末を横にすると動画が流れ、縦に戻すとテキストを表示。アプリのユーザー体験に衝撃を受ける)
2)桃園の誓い
2011年4月に、プログラミング不要で、ブラウザ上のドラッグ&ドロップだけでアプリを作るアイデア「Yappli」を思いつきました。当時はノーコードという言葉は存在せず、「プログラミング不要」と伝えていました。
1年前に初めてアプリを作り、そのユーザー体験に未来を感じる一方で、開発の難しさを痛感しました。アプリ専用のプログラミング言語やUI/UXが必要となり、世に出すには「審査」まで必要とされます。そのような煩雑性を一切考えることなくiPhoneアプリが作れたらどうだろうと、佐野にそのアイデアについて話すと、「作れる」と言い切ったので、じゃあ作ろうとなりました。
当初は半年程度で作る想定でいましたが、いざ仕様書を書き始めたらその膨大さに気づき、これは2人では無理だ、デザイナーがいるとなり、同じくヤフーの同僚であったウェブデザイナーの黒田(3人目の共同創業者)を当時ヤフーが入居する六本木ミッドタウンのA971カフェに呼び出し構想を話した結果、5分後に「これはやばい」と即参加を表明しました。そこから、ベータ版に漕ぎ着けるのにまさか2年もかかるとは誰も想像していませんでした。
3)ゼロ・トゥ・ワン
創業前の2年間、人生でも最大級に頑張ってYappliを夜な夜な作り続けました。実装とデザイン面で佐野・黒田とすり合わせながら仕様書を何度も練り直しながら書くのに半年、黒田のデザインコーディングに半年、佐野のプログラミング実装に1年を要しました。週末は一切遊ばなかったので、人生の写真がこの2年間ありません。
ここでの苦闘は「起業の3重苦」です。
・作れるか分からない
・作れても売れるか分からない
・作れても資金調達できるか分からない
という、リスクが高すぎて確率を計算できる賢い人なら絶対やらない挑戦となります。しかも無報酬で2年なので副業でもありません。
3人が本業の仕事をちゃんとやりながらもモチベーションを保ち、途中解散せずに続けられたのは奇跡ですが、同時に私が最も注力した点でした。その部分だけでもとても長い話になるので、今回はごくシンプルに述べますと、やった事は「現実歪曲」です。無いものを、実際に有るように、本当に事が起こるように、チームで錯覚するように努力しました。例えば、
製品ができる遥か前に立派なサービスサイトを作る。「誰でも作れるiPhoneアプリ」というパンチワードをサイトのど真ん中に入れました。
会社もまだない、顧客も誰もいないのに、FBページを作り開発進捗を伝える。当然いいね!が1つも付く訳はなく、空気に対して情報発信していた。
あえて上海に行って開発合宿をして謎の本気感を出す。佐野は実装、私はサポートページをひたすら書いてました。
このように、大量の先回りと無駄をやって、数ヶ月で解散するサイドプロジェクトにならないように、必死にゼロ・トゥ・ワンを目指しました。
4)自由への切符
2年間も開発をして何とかYappliのベータ版ができ、さて資金調達だとなりました。製品はかなり新規性が高く、初めてのベンチャーキャピタル(VC)へのプレゼンも「CMSは儲からない」とばっさりNGを食らいました。我々自身もすぐにマネタイズできるイメージは全く浮かばなかったので、自己資金だけでやるつもりは当初からありませんでした。
ヤフー勤務時代の上司だった川邊さん(現Zホールディングス会長)に、子会社のYJキャピタルの小澤さん(現ヤフー社長)を紹介してほしいと連絡し、面談ができました。小澤さんは当時からエンジェル投資家としてもカリスマで、ひょうきんなキャラクターとしても露出されていました。が、実際の小澤さんはかなりクールで、パワポのプレゼンには興味を示さず途中で電話で席を外してしまい、これはダメだな、と思いました。が、席に戻ったタイミングで製品デモを始めると、小澤さんの目の色が変わりました。なんだこれ?どうやって動いている?と次々と質問を受け、その場で「出資する」と言われました。
それからしばらく交渉が続きました。出資はまだ口頭約束で契約書は巻けておらず、ワンチャン出資されない可能性もありましたが、一番そのリスクを毛嫌いしていた佐野が最後の最後に「出資されなくても、もう会社辞める覚悟できてます」と言ってくれたのは創業への後押しになりました。
晴れて2013年4月に創業し、その1ヶ月後に、顧客・売上ゼロながらも企業価値1.2億円で3,000万円の出資をYJキャピタル(現Zベンチャーキャピタル)から受けました。その日、3人で青山一丁目駅の三菱銀行のATMへ通帳記帳へ行きました。3,000万円の記帳を見た時の興奮は今でも忘れません。人生で見た中で最大の金額でした(三菱銀行は当時はMacでログインすることができず、誰もウィンドウズを持っていなかったのでわざわざ記帳にいくしか確認手段がありませんでした)。
自分たちで決めたオフィスへ行き、自分たちで決めた机と椅子に座り、自ら出社時間を決め、自らの製品を作り、売る。圧倒的な解放感のもと、自由を手にした喜びで、最高の気分の初日を迎えました。ただし、その高揚は瞬く間に消えていくことになります。
5)閉塞感との戦い
いざ創業すると、その起業ドリームは半年も経たずに終わりました。小さなマンションの一室で創業の3名だけ、売上もほとんどたたず、新しい機能を作っても全く売れず、鳴かず飛ばずでした。最大の敵はマンションからこのまま何も起こらない雰囲気が日々蓄積していく「閉塞感」でした。リビングデッドの悪魔が「君たち、もう無理だよ」と囁いてきます。創業者たちも全く会話しなくなり、ランチも共に行く事はなくなり、関係性はギリギリの状態でした。
そんな我々の危機を見て、出資元のYJキャピタルの堀さんは、毎週それぞれとランチ1on1をやり、ストレスのガス抜きをしてくれました。起業当初、自己資金と出資金を合わせて4,000万円あった銀行口座は、底で800万円まで減っていき資金不足に焦りもしました。結局2年半、マンション企業でした。2015年当時、2番目の社員に「上場に備えて証券会社を決めたほうがいい」と言われて、マンションからの視界では「上場」など言うも恥ずかしい言葉だったので、そんなの考えるべきではないと全否定しました。が、今振り返るともしかして彼の方が未来が見えていたのかな?と思ったりもします。
6)全ては心から始まる
転機は2015年4月に訪れました。当時話題になっていたSLUSH AISAというスタートアップのピッチイベントでアジア各国から集まった50社中、2位の準優勝となりました。創業時にIVSの予選で落ちて以来、スタートアップのピッチイベントへの自信を失っており、YJキャピタルの堀さんにしつこくケツを叩かれて、書類締め切り日のギリギリに応募しました。
このイベントで準優勝したことは、その翌年から始まる成長期とは直接的に関係ありませんが、一番重要な、創業者たちの心の自信を取り戻すことができました。丸2年鳴かず飛ばずで、気力がギリギリのタイミングで勝てたことで、俺たちのテクノロジーは凄いんだ、イケてるスタートアップなんだ、という自信を創業者たちにもたらしました。このイベントでの勝利がなかった場合、その後どうなっていたかは想像もつきません。
また、イベントの審査員だったDeNA共同創業者の川田さんには「君たちが圧倒的に1位だった」と言われ、GCP(グロービスベンチャーキャピタル)やセールスフォース社とも繋がりを得て、その年に出資を受けることができました。3.3億円という、本格的な出資を受けることで、初めてマンションを脱してオフィスを借りることができ、初めて本格的な社員採用をすることできました。創業から丸2年半経ち、遂にスタートアップゲームへ参入するチケットを手にしました。
7)目標は月次1,000万円の赤字
3.3億円の資金を得て、社員が10人ほどになっても、いまいち成長角度は上がらないまま半年ほどが過ぎていました。売上もコストも小規模だったので、収支はトントンくらいになっていました。新しい株主も成長に懸念を深めており、創業3名とVC株主皆で合宿へ行きました。昼間の議論を終え、夜にお酒も入り人狼ゲームをやっている最中に、GCPの今野さんに「庵原さん、月次で1,000万円の赤字を出してほしい」と言われました。この一言で、自分の中の何かが吹っ切れ、「1,000万円の赤字を作ること」を目標に、あらゆるマーケティングを開始しました。その言葉の真意は「再現性のあるマーケティングチャネルを発見するために色々施策をやろう」でしたが、まだSaaSブームが来る前の当時、今野さんも私も何をやったらいいか分からない状態でした。
そんな時、入社したばかりの一人目のマーケティング担当者の佐藤が、展示会への出展を進言してきました。東京ビッグサイトなどでやっている展示会はかなり成熟した企業というイメージで、スタートアップらしくないと偏って考えていました。半信半疑で出展すると、すぐに顧客から受注することができ、そこから展示会をひたすらグロースハックし続けました。会場での配布物はじゃがりこがヒットし、当時のオフィスがあった赤坂周辺のじゃがりこを買い占めました。「アプリの資料とじゃがりこを配っています」という聞いたことがない組み合わせのフレーズが刺さったのかは謎ですが、多くの人が展示会場に立ち寄ってくれました。
初めて再現性のあるマーケティングチャネルを発見し、製品も日々進化させていたのでプロダクトとマーケティングの両軸が機能し始めて、これはPMF(プロダクト・マーケットフィット)かもしれないと自信を深めていきました。創業から3年以上が経ち、2016年にして初めてグロースを感じ、何かを掴み始めました。
8)成長と痛みの狭間で
成長を掴み始めたヤプリですが、同時に2017年頃から良からぬフェーズにも入りました。
続々と受注する顧客の期待に応えようと、機能開発のスピードを優先するあまり、品質管理を置き去りにしていました。また、作ると言ったものを作りきれない機能も多発し、会社とシステムの信頼性が問われました。顧客の中には100万ダウンロードを超えるようなアプリも増えてきて、これまでは単に規模が小さいために発見されなかったバグも大量に出てきました。プッシュ通知の負荷にシステムが耐えられなくなっており、配信の集中する週末を迎えるのが恐怖でした。プッシュ通知の予約時間が複数アプリで被らないように、個別に顧客に電話をして予約時間をずらしてもらっていました。
初めて掴み始めた成長を止める訳にはいかず、システムが不安定な中でも販売を続けていました。一番頭が真っ白になったのは、沖縄で開催されていた顧客向けカンファレンスで私のプレゼンが好評で受賞し、その表彰台にあがろうと待機していたその時に、当時の最大顧客のプッシュ通知が連続で何度もループ配信して止まらなくなった事です(正確には5回同じプッシュ通知が配信された)。もう終わったと絶望の中、笑顔で表彰台に登ったのは今でも覚えています。
この時から、攻める開発だけでなく、守る開発の重要性を身をもって感じました。品質管理やサポートチームを本格的に立ち上げ、2年がかりとなる裏側の基盤システムの刷新にも着手しました。その甲斐があり、現在のYappliは非常にバランスの良い攻守ができるシステムへと進化しており、そのリスクとリーダーシップを取ったエンジニアの佐藤は、現在ヤプリのCTOとなっています。
9)最大のハードシングス
この10年を振り返り、最大のハードシングスはプライベートで起こりました。いやこの10年というより、人生で最大でした。
創業2年目に1人目の娘が産まれ、3回目の資金調達(シリーズB)の真っ最中の2017年に2人目の娘が産まれました。本当にラッキーなことに、私も、私の周りの家族もこれまでの人生で大きな怪我や病気なく過ごせてきました。が、産まれてきた2人目の娘は心室中隔欠損症と呼ばれる心臓に小さな穴が開いており、生後1ヶ月後に手術となりました。産まれたばかりの小さすぎる生命の心臓手術は恐怖でしかなく、術後は数日間の昏睡状態になります。娘は5日間と平均より長く眠り続け、その間のもし目覚めなかったらという恐怖は言葉に表せません。
手術と資金調達の交渉ピークのタイミングが見事に重なり、CFOの角田が投資家VCとの交渉に立ってくれていましたが、その間を取り持つ私にもバンバン電話が入るタイミングで、ICUの待合室でも交渉・調整を行っていました。こうやって起業家の感覚はバグっていくんだな、と思いつつ、冷静にお金の交渉ができてしまっている自分が少し怖かったです。目覚めた後は入院になるのですが、術後が痛すぎて数日間は悲鳴のように泣き続けます。これが一番きつかったです。
娘の入院を通して、毎年多くの赤ちゃんが心臓手術を受けており、呼吸のチューブを一生つける必要のある子供が多くいることを知りました。病院やドクターにお世話になり、出資や上場など資本主義を突っ走るスタートアップの中において、もっと重要で尊い仕事が世の中にはあるんだな、と立ち止まることができました。幸いにも娘はかなり軽い方で、術後は順調で今は5歳になり、何ら体に問題はなくめちゃくちゃ元気に育っており感謝しかありません。
10)上場、そしてモバイルDXカンパニーへ
会社はあれよあれよと成長し、2020年12月に悲願の上場を果たしました。上場して感じたのは、ビジネスのプロリーグに参加できるようになった感覚です。
未上場の最後の方は、魔法がかかりメディアに掲載されたりと周りからチヤホヤされます。が、上場するとまた小学一年生からのやり直しです。周りには競争を勝ち抜いてきた凄い企業と凄い経営者ばかりで、また新しいゴールがセットされた感覚があります。そしてどの会社もそれはロングタームであり、マラソンです。ミッション・ビジョン実現へのただの通過点であり、ノーススターへ向けて走り続けるのが当たり前という世界です。ソフトバンク孫さんが上場を振り返るなど聞いたことがありません。
次の10年に向けて、ヤプリも初めて複数製品を出す会社へと変わります。アプリを軸に、アプリ以外にも進出します。これまでの10年はアプリDXの会社でした。次の10年は、アプリ以外の顧客接点とも繋がる製品群を揃える「モバイルDXカンパニー」へと進化していきます。
最後に、ここ最近のヤプリでは結婚や出産する社員が急速に増えています。社内結婚も増えてきています。ヤプリを2013年に麻布の法務局に届け出なかったら生まれてこなかった生命があると考えると、経営者として新しいやり甲斐を感じています。「企業は社会の公器」というパナソニック創業者松下幸之助さんの言葉の、ほんのごく一部が何となく理解できるようになり、自分も10年が経って少しは成長できたかなと感じています。
終わりに)
以上、大変長くなりましたが、10年を10章で振り返りさせて頂きました。
今のほうが10年前より10倍楽しいです。閉塞感と戦っていた創業者3人だけの時代に、トイレを自分で掃除していたマンションに戻りたいとは一切思いません。250人の仲間と一緒に切磋琢磨できる今のほうが圧倒的に楽しいし、ノーコードのソフトウェアには未来があります。
これまでも、これからも変わらずやり続けます。10年のご支援本当にありがとうございました。次の10年もヤプリを宜しくお願いします!