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感想文、Everything Everywhere All At Once

日々忙しい。仕事も人が足りなくて回らないし、色々あってお金もない。時間が足りない。私だってやりたいことあるのに、家族のために我慢してる。なんでこんなことになったんだっけ?
もしあの時、あの選択をしていたら。あっちの道を選んでいたら。もしかしたら今と全然違う生活だったのかも。やりたいことをやれたのかも。脚光を浴びる人生だったかも。
まぁ、そんなこと今考えたって仕方ないけど。ははは。皿洗おう。

今の生活が死ぬほど辛いとかじゃない。なんとか生活できてるし。
でも、ふと立ち止まるとそんなことを思う瞬間がある。

多忙極めるコインランドリー経営だったり、税務処理に追われる自営業だったり、娘との関係を拗らせてる母だったり、差別的な視線の先に置かれるアジア系移民だったり、父親のケアする娘だったり、夫に呆れる妻だったり。
なんとなく冒頭から、主人公にあたるエブリンに自分は似ている。と思った。
考え方自体は古くて、引いてしまうような発言をすることもあるけど、共通している部分があると感じる人はいると思う。

極めつけに、慌ただしい日常を送る中、コインランドリーのテレビでロマンス映画が放送されている。
煌びやかな雰囲気の中、カップルが手を取りダンスを始める。
それに気がつき、うっとりした、憧れの表情で映像を見つめるエブリン。
その感情をわたしも知っているから、彼女見ていてわかる。

序盤からなんだかしっとりとしてしまったけど、今回観た「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」はジャンル的にはSFアクション作品になる。
ポスターも、ディズニーのムーランとジェームズ・ガンのスーパー!を掛け合わせたみたいなやつ。そこだけみると夏休みとかGWに合わせなくてよかったのかな?と言う感じの印象だ。

しかし一筋縄ではいかないのだろうと、見る前から察していた。理由はA24配給の映画だから。
A24のタイトルを並べてみると、ここにSFアクションが入るのに違和感を感じると思う。
MCUなど他のSFやマルチバースの展開を見てきたけど、それらの作品とは違う展開になるのだろうな、という漠然とした期待と不安。
そんなわたしの気持ちを知っているように絶妙なタッチで物語は始まる。
エブリンは主人公にしてはキャラクターっぽくなく、あまりにリアルで、どこにでもいそう「すぎる」。

しかし、その辺の彼女のキャラクター性を無視して、物語は一気にマルチバース展開を押し進める。
マルチバースからやってきた夫ウェイモンド(バージョン違い)が現れ、お手本のようにマルチバースから世界を救ってほしい、君は選ばれし者だ、そうエブリンに言う。
アクションシーンは、カンフーとホラー演出とコメディが混じり合って綺麗な映像とキレのある展開で不思議とB級感はなく、純粋に楽しく観ていた。

しかしラスボスと言われていたジョブ・トゥパキが登場すると状況は一転する。
彼女は娘ジョイの姿をしているのだ。
また一気に奇妙な気持ちになる。これは正統派ヒーローものではないんだった。

ころころと衣装が変わるポップスターのような出で立ちだが、その格好とは真逆で、究極的にこの世に絶望してるっぽい。(と感じさせるのも、まるでポップスターは絶望しないと思っていることを指摘してるようで皮肉っぽくてうまい。)

マルチバースを飛び回り、あえて最悪な選択をする彼女は、常に虚無を感じ、何を選択しても無意味と知ってる。
倫理観も情もない、いわゆる「無敵の人」状態。

エブリンは、ジョブ・トゥパキとジョイは別人だと主張し、彼女と交戦し続ける。
しかし、ジョブ・トゥパキは自分はジョイであると言う。
さらに「わたしとあんたは同じ」と告げる。

言われて、エブリンは気がついた。
いや、多分彼女はこれまで何度も気がついてたのに気づいてないふりをしてたんじゃないかな。
どこでどんな選択をしても、必ず虚無が待っていることを。

この辺りから、この映画のヤバさに飲まれていた。
ひとりで観ながら叫び出しそうになった。
だってこれ、わたしもそうだから。
最初に別の世界線に憧れているエブリンと自分を重ねさせるような映像は、わたしに対しての伏線だったのか、なんて思うくらい。

エブリンは日々の生活の中で、時々、他の未来がないか探して、何かに期待をして分岐点を増やす。
コインランドリー経営なのに、カラオケマシン買ったりして。
しかし、結局何者にもなれない道にいる。

この映画ではマルチバースという宇宙として描かれているけど、明らかに、わたしたちの人生と頭の中の話だ。
頭の中に複数のユニバースがあって、常に行き来してる。
これがこうだったらどうなってたかも、なんて無限に考えてるんだから。
我々のイマジネーションが生み出したマルチバースという概念が、イマジネーションに帰還する。

だけど、いつだって、想像の中だけで、現実の自分が変われるわけないんだろうなって知ってる。

それをジョイに突きつけられて、エブリンは虚無感に飲まれる。
2人でどこまでも落ちていく。
何もかもに絶望したら楽だ。倫理観も失って。
堂々巡りの世界に希望なんてない。

ついに2人は何もないユニバースまで到達する。
生物がいない石の世界は、意外にも美しくて、そこで静かに暮らすのもいいのかも。って2人は話す。
わたしも一瞬、なんでこんな頑張ってんだろうって正直思う。
このまま「ドーナツ」に飲み込まれてしまえば、本当に「無」になれる。
痛みも悲しみもない世界。この世界でいう「死」だ。

ジョイが登場してから、ここまで闇に飲まれそうになってたけど、わたしは嫌だな、と思った。
まだ、石にも無にもなりたくはない。

エブリンを破滅の淵から救うのは、ウェイモンドだ。
「どの世界でもあなたとコインランドリーと税金の手続きをやりたいと思う」と言われてはっとした。
カンフーのプロにも歌手にも女優にもなれないけど。そんなわたしでも一緒にいたいと言ってくれる人がいる。

ふしぎなことに、人からの愛情って忘れてしまいがちだ。ほんとに。

それでも、ジョイは「無」を望む。
エブリンははじめは引き止めようとするけど、最後にはゆっくり手を離して彼女の選択を尊重した。
ここはすごくすごくよかった。
多くの作品では相手を引き止める美学があるように感じるから。ただ受け入れて欲しい時もある、とわたしは思う。

エブリンは彼女を行かせようとする代わりに、伝える。
ただ、あなたがいる世界を望んでいるし、この虚無にある一瞬の喜びの瞬間がある。だから、わたしはここにいたいと思う、と。

他人の選んだことを受け入れられる優しさを持つことや、誰かとの一瞬の時間を愛おしく感じることが、なんとか今を生きることに繋がるのかもなと、思った。
それが華やかでなくても、平凡でも、いいんだ。

最後に、あの社長室で家族でラタトゥーユまがいのアライグマの話をしたことを思い出す。
マルチバースに飛ぶために、くだらないアイディアを家族で考えるシーンも最高だ。
あれこそが、きっと日常にある彼女たちの大切な時間なのだ。

LGBTQ+やボディ・ポジティブ、セックス・ポジティブとか、いろんな言葉があってそれに救われる人もたくさんいると思うし、この映画にはそういう側面もある。
だけど、特定の誰かだけじゃなくて、万人に向けられてるすごくシンプルなメッセージがあるとわたしは感じた。

正直しんどいと思うことが続くと、現実を楽しむ余裕はなくなる。心を殺して我慢して、いっぱい我慢続けて、ただ生きているだけで精一杯でそれに疲れてしまって、ここじゃないどこかに行きたいと思う。
その中で誰かと会話したり過ごしてハッピーな瞬間があるのに、それを尊重できなくなる。
実際に自分がそうだった。
映画みたいな日々じゃないことに虚しくなったりしてしまう、どうしても。
あの時あっちを選んでいればよかったのかもとか考える。
自分の今の人生なんて、となってしまう。

でもそうじゃなくて、今目の前にある小さくても愛おしい幸せを幸せとしてきちんと捉えることだって大事なんだ。

なんか本当に忘れていたことを思い出させてくれた映画だった。
このタイミングでこの映画に出会えて本当によかった。

映画を観る前はタイトルが全然頭に入らなかったけど、見終わったら一瞬で私のものになった。

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