#11『rhetorica #04�(棲家)』ふんわりした感想

 先日寄稿した『rhetorica #04 』が無事発売しました。買いましょう。 http://rheto4.rhetorica.jp/

 今回2年ぶりの新刊ということで変則的にお手伝いしつつ、寄稿しつつ、話つつというふわっとした距離感でコミットしていたのだけど、レギュラーメンバーないし編集スタッフの多大なる労力には感謝と敬意が無限にある。
 僕自身今回の文章『王の肖像』はかなりの難産で、本当に迷惑をかけたし申し訳ない気持ちでいっぱいだったので、裏話でもして少しでもコンテンツにしていきたいと思う。

 先に書いておくと、僕の中でぶっ刺さったのがこの2本である。
・松本友也『コズミック・ハビタット』
・前田龍『「内宇宙」が「セカイ」と出会う』
 次に自分自身が書きたいと思ったのがこの3本。
・小川和キ『乗るべきはバイクではなく批評だった』
・北出栞『レクイエム・フォー・イノセンス』
・黒嵜想『10月9日』

 最初にレトチームの瀬下とジョージ達と色々と話して、「嫌いなファッション評論関連の人間が、散々ハイコンテクストノームコアだなんだと言っていたのに今anti social clubの服をメルカリで売っているのが辛い」というエピソードから、彼にラブレターを書こうという話になった。
 僕自身は彼のことが嫌いだし認めてはいないけれど、とはいえなんらかな一貫性を持って衣服について思考していた人間が変わってしまうことに対しては悲しい気持ちになったので、近年のファッションニュースの動向から考えていきながら一方的なラブレターという喪の作業を行おうと画策していた。

 とはいえ書き出してみると何も出てこず、当初の柱にあった、「ハイファッションの記号化とDiet Pradaの美学」みたいなものも瓦解した。
Diet pradaというinstagramのアカウントがあり、彼らは最新のコレクションの画像とその元ネタを暴露するという暴力的啓蒙を行っており、いわばペラペラとした流行の移り変わりの歴史性を強制的に示す話もボツにした。

 僕自身の考えているテーマとして「装飾こそが題材そのものである」というのがあるのだが、それについても座談会(ver1.0 「アプリケーションはあの顔を覚えているか」P30 )でラッパーの刺青の話をしたので書くわけにもいかなくなった。

 そういった状況の中で平行して出てきたものが、突然閃いた「裸の王様」の話だった。元々手グセで突然童話などを話出す悪癖があるのだが、今回はこれでいくしかないと覚悟を決めた。
 色々と絶望ハンバーグ工場勤務の気持ちになりながらペチペチコネコネと文章を書き上げて、出来上がった本を読ませてもらったら、もっと色々書きたかったなと思うなどもした。どこかで引用したいと考えていたベンヤミンの文章をここで書いておく。

フランス革命は、みずからを回帰したローマと理解していた。ちょうどモードが過去の服装を引用するように、フランス革命は古代ローマを引用した。アクチュアルなものがかつてというジャングルのどこをうろついていようとも、それを敏感にキャッチする嗅覚がモードにはある。モードとは過ぎ去ったものへの虎の跳躍なのだ。ただ、この跳躍は支配階級の権力下にある闘技場で行われる。歴史の自由な空の下でなされる過去への跳躍は弁証法的なものであり、マルクスは革命をそのような跳躍として理解していた。
「歴史の概念について/歴史哲学テーゼ XIV」(鹿島訳 2015:62-63)

 自分の文章に入れることができなかったけど、絶対入れるべきだったよねこれ...と後悔していたりもする。
 今号は喪の作業とジャンプに関しての本だなと思う。
 未来を無条件に肯定できないし、たとえセカイが行き詰まりだったとしても、そこから思考していくのがレト民の仕事なんだなーと感じた。
 僕の今回の文章も死に続ける無数の画像/アーカイブについてという内容だったが、もっといい感じにできたのかなと思うのであった。。
 今号で感動した文章も引用しておく。

未来はなくとも、生は輝く。ーーきっと僕らは今の中で/輝きを待ってた
『少女、ノーフューチャー』江永泉,rhetorica#04 ver0.0 P105

 みんないい文章が書けていいなぁって思ったので、来年は頑張りたい...
知的体力がないのでもう一生何も書けないんじゃないかと思っているけど...

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