wearing note #2.5 友人の結婚式で

・結婚式に行ってきた
・存在の分有=分割について
・開かれた檻

 2018年6月2日、K夫妻の結婚パーティーへと招いて頂いた。先日何を着て行こうか?と散々悩みながらも、天気が良かったので隠し球の構成でいく事にした。
 新郎のT氏が「近代を超克するべきか否か?あるいは再定義するべきなのか」という事を式中にさらりと言う程度には「ここは研究会か?」みたいな面白い式だったのだが、そう来るだろうと踏んで半袖半ズボンのワンピースにジャケットと言う組み合わせを採用した。女性が着ていてもおかしくないデザインと光沢感のある黒に、黒のネックレスを二種類用意して、うまくただ黒いだけでなく、金属的な光沢ともプラスチックのような光沢とも違う独特の素材感を生かすことが出来たのではないだろうか?また、規範的な正装そのものを同時に行ったので、おかしくはないが、おかしいという内容となった。
 まぁそれはともかく、冒頭に「結婚とはかりそめの牢獄に喜んで入ることである。ということで今回会場には檻を用意しました。」と言う趣旨の挨拶があり爆笑しきりの、大変楽しいパーティーでした。
 二人は結婚して3年目ということもあり、両家のご親族の方もすでにお付き合いがあるようで、自由に枠に縛られない自分たちの結婚式を企画する事に成功していた。
 
 さて、新郎の挨拶の中に「最小単位のユニットである私たち二人の間に信頼関係と愛があり、そこに国家や法制度の入る必要性はなく、いわゆる結婚式や披露宴を執り行う必要性もないのだけれど、それはさておき結婚して月日が立ち、新婦の着たいドレスが見つかったことで今回の式が行われる運びとなった」といった内容の解説があったと思う。(メモしてないのでそんな感じだった程度のニュアンスですが。)
 大変素晴らしい式で、驚く事に「まずは両家のみなさま、この度はご結婚おめでとうございます。」というテンプレート挨拶の出番がなく、夫妻からのクロスインタビュー形式で幼少から大学、社会人時代の友人関係を通して夫妻の来歴と人となりを掘り下げる内容であった。(個人的には聖書引用おじさんのモノマネをしたかったけどやめました。)
 その時考えていたのは、最小単位のユニットである夫妻がこの3年間で共に過ごす事によって分かち難く、互いの存在を規定し合っているという事だった。
 ジャン=リュック・ナンシー『複数にして単数の存在』冒頭部分でも書かれている通り、私たちはただ一人で存在している訳ではなく、他者を通じて初めて『私』が規定される。『神』も『釘』もその意味するものは伝達=共同化される事によって初めて意味をもつ。あらゆる結婚式は主にその主役である新郎新婦を新たに規定し、以後の伝達パスの設計だと言えるだろう。
 K夫妻の式とは、最小単位の家族という社会から、もう少し輪の広がった別の社会への、存在の分割=分有だったように思う。クロスインタビューによって、友人であるわれわれが、家族が、再度伝達=共同化を行い、その存在の意味を改めて互いに問うものだったように思う。また、最後の新郎の挨拶も鮮やかであった。
 「最後の方のインタビューにおいては、何を話しているかは全くわからない方もいらっしゃったかと思います。それが他者です。(出来れば)それを良いものへと各々が変換してください。」

 「それゆえすべてはわれわれの間で起こる。この「間で」は、その名が示すように、固有の実質も、連続性も持たない。それは一者から他者へと導くのではなく、織物になるのではなく、セメントや橋になるのでもない。おそらくはそれについて「絆」として語る事すら正確ではない。「間で」は、結ばれても解かれてもおらず、その双方の手前にある。あるいはそれは絆の核心にあるもの、糸と糸の交差であり、それらの先端はそれらが結ばれていても隔てられたままである。「間で」は、そのものとしての、その意味の間化としての特異的なものによって開かれた緩みと距離である。「間で」の距離を保たないものとは、自己の内へと崩壊し、意味を奪われた内在でしかない[ジャン=リュック・ナンシー『複数にして単数の存在』,p32]

 開かれた一つの檻に共に喜んで入り、そこへ他者を招き、伝達する事。
 とても心のこもった結婚式だったように思う。ただ一つの出来事がわれわれの「間で」あり、その意味と存在を分割=分有する事、それが結婚なのだなと考えた。

追記
 そういう意味で開かれた檻というのは、夫妻という存在や制度上の関係性が二人だけで完結しているのではないというものだったのだと思う。
追記2
 K夫妻には感謝と祈りを。この文章は二人に向けて書かれ、その間にあるものを私たちが分割=分有するためにも書かれました。
追記3
蛇足ですが、わたしたちという存在の意味とは、その存在の間にある。それぞれの肉体の中にわたしがいるのではなく、限りなく無限に近い有限の中で起こる、ただ一度の出来事の経験に立ち現れるものだと思う。わたしの意味は、わたしのものでなくわたしとあなたのもので、その「間が」立ち現れるただ一度の出来事と経験と、その記憶が親愛の念を抱かせるのだと思う。

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