#12 様々なやっていき

 ドキュメンタリーが撮りたい。ここ数年ずっと考えているのだが、これを上手くマネタイズする方法を考えなければならない。
 それはそうと、なぜ人は他人の人生から教訓を得たがるのだろうか。

 先日ファッション界隈のA氏とS氏の過去のバトルを見た人が「またバトってください。勉強になるので」みたいなことをA氏に言って火に油を注いでいるのを見てなんて自分勝手な物言いだと最悪な気分になるなどしたが、なぜうんざりとしてしまったのだろうか。自分自身もレトリカ民の # なりわい次の一手 を見に行って勉強になるなあと思っていたが、酷く傲慢な気がして整理したくなった。
 そもそも、学びや気付きを「勉強になる」というフレーズに還元してはならないのではないか?ここから何か自分にとって新しい業務を課すなり新しい人間関係を始めない限りは、勉強した気になって無を取得するだけでしかない。少なくとも、noteにまとめるくらいはしないと辛すぎる気持ちになって業務に集中できない。

 さて、対話からの学びというとソクラテスが最初に思い浮かぶことであるが、他者との対話の記録「ソクラテスの弁明」などを見聞きすることに全く意味がないのではないか?(ソクラテスの哲学者としての姿勢を理解するためには必要であるが、私たちは大体ソクラテス研究者ではない。)
 どうも最近インタビューや対談、鼎談といった形式のコンテンツに触れ過ぎて忘れているが、例えば私たち自身が対話の中で無知の知を見つけることこそ重要であり、他者が無知と出会った瞬間あるいは晒された瞬間を見たところでなんの意味もない。
 もちろんフィクションやシミュレーションとして追体験をすることで学びへと還元することは可能であるが、私たち自身が対話をしなくてはならないのではないか?

 ここに対話について一節入る予定でした。(各々が考えてください)

 ドキュメンタリーを撮る/撮られることについて一節入る予定でした。

 ということで、ドキュメンタリーを撮るということが、自分自身にとっての学びであり、他者にとっての学びであるという形に持っていき、コンテンツをみた人にとっても何かやるかみたいな動機が生まれればベストである。
 恐ろしく適当なnoteが出来上がってしまった...

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