サロンの怪談と結社の怪談

 昔、何の本で読んだのか覚えてないのですが、
「劇場のことを hall と言うのは何故?」という問いに、
「昔々は、演劇も音楽も市井の人が生活の中でやる(楽しむ)ものだった、その練習の場所も発表の場所も各自の家の居間(hall)でやるものだった、それが町全体で盛り上がったり、上手い人のところに人が集まるようになって個人の家、居間では捌ききれなくなったので、専門の建物を建てて「みんなの居間(hall)と呼ぶようになった」と読んだことがあります。
 もちろん今でいう「諸説ある」うちの一つなんでしょうけど、まぁ日本でも地方の神楽とか歌舞伎とかはそんな感じですね、続いて
「その道のプロが生まれたのはその後、みんなのお手本となる人が必要とされてその人がプロになったし、プロがそれだけで生計を立てられるようになるには専門の劇場を建てるほどの需要がある町が出てこないと不可能だった」と。
 旅回りの一座はよその地域の完成形ですからね。
 でそのあと宮本直美「教養の歴史社会学: ドイツ市民社会と音楽」岩波書店という本を知りまして、日本にクラシック音楽が根付くにあたってフランスでもイギリスでもなくドイツが主流になったのは、ドイツ教養主義というものがあったからではないかと思うのですが、値段が高いのとなんとなくで手が伸びず、今に至ります。

 その後数年経ちまして、山本美紀「音楽祭の戦後史 結社とサロンをめぐる物語」白水社を書店で見て、内容関係なく題名で
「なるほど、サロンの音楽とは血縁や地縁で行われる演奏で、結社の音楽とは生まれも育ちも異なる人が集まって演奏することか」と頭に浮かびまして、日本で一番高名な一家の合奏が「サロンの音楽のいい例か」と納得したんですよ、手に取って中を見たらそんなこと全くの大外れの内容でしたが。
 あといわゆるフランスのイメージが強い「サロン文化」は、金持ちが画家、詩人、音楽家など文化人を集めて作品を発表させたり藝術論を闘わせたりと「生まれも育ちも異なる人」が集まっていますけど、でもサロンの主催者はその家の主人であり、家族の同意が得られなければ集会を開けないことが結社の文化とは違うなと、現代の市民サークルは主催者が自分の家に皆を集めるより会場を借りて開催します、なのでサロン文化は血縁地縁の範疇でいいんじゃないかなと。

 でさらに数年経ちまして、Twitterで知り合ったゲーデルさん@QGZLpFBcik0hDMt が怪談文化と大衆の関係を語ったときにそれを思い出しまして、
 サロンの音楽と結社の音楽を、サロンの怪談と結社の怪談と置き換えると、血縁や地縁で語られる怪談とは古式ゆかしき「親の帰省についていった子どもがお祖父さんお祖母さんや近所の人から、その土地にまつわる不思議な話を聞かされる形式」ですが、現代日本でこのサロンの怪談は絶滅の危機に瀕しています。
 そもそも、もう田舎を持たない家族、毒親から逃げ出して改めて自分の家庭を築いた人、人口減少で地域が消滅したり限界集落となって知ってる人がいなくなったとか、決定的なのが
「怪談を語るのが怪談収集家という、その土地に縁もゆかりも持たない持たない人」の増加です。
 今の日本怪談界で血縁者から聞いた怪異譚を自分で語るのは石原苑子さん@wanisankowai 「祖母から聞いた不思議な話」が頭に浮かびます…
 ちなみにこの題名で合ってるよな?と検索してみましたら、チョコ太郎という人が「祖母が語った不思議な話」というのをネットに挙げていまして、いるもんだなぁと。https://fanfunfukuoka.nishinippon.co.jp/author/14

 しかし日本怪談界の主流はインターネット(電脳空間)で、ここで知り合って気が合った人が実際顔を合わせて心霊スポットに行く、賞レースに参加する、イベントを企画したり顔を出したりするという「生まれも育ちも異なる人が集まって」という結社の怪談でしょう。
 自分が体験した数々の不思議な話をする人もいますが、例えるならグルメマンガで主人公が料理人で物語が進むタイプは長く続くと無理が必要になる、しかしマンガ「美味しんぼ」は主人公が新聞記者なので日本各地の料理人や料理を取材するタイプが長々と続けられますし、基本的に、あくまで基本的には、内容に無理が生じないはずなんです。
 怪談収集家は後者ですからね、体験談を語る人は無理を押してまで続けたいとは思わなければ、そりゃ長くは続きませんよ。

 そんな中で怪談恋慕弁チャン@love5cw という人が、サロンの怪談も結社の怪談も両方できる絶妙なところにいる、怪談文化の両翼を担っているんですけど、当人にその自覚があるんだかどうだか私にはよく解りません。
 ただ弁チャンさん、文化の一番重要なところ「楽しいからやる」の人なので、知り合った人数が膨大になったら疎遠になってしまう人もいて(マンガ「美味しんぼ」でも一度出演して二度と出ない人が大勢います。当たり前です)、「お化けより人間の方が怖い」法則にあてられないか心配です。個人的にやっていて組織的にやっているわけではないので、難しい人から攻撃されたら背中を守ってくれる人がいるかなと。

 とまぁそんなことを考えていたら、INVISIBLE DOJOさん@mdojo1 が「藤原定家の「源氏物語」注釈、欠損見つかる!の報道で、過去記事を再掲載。」https://m-dojo.hatenadiary.com/entry/2022/04/21/105645
 というエントリをアップしまして、読んで「うぎゃぁ!」と。
「源氏物語」の書けた帖が見つかったのは喜ばしいですよ、私は「源氏物語」に暗いので素直におめでとうをいいます、しかしINVISIBLE DOJOさんが紹介しているマンガ「うた恋い。」の藤原定家はいただけない、作者は実際を知ってて描いてたのか知らずに描いたのか解らないけど、
「そして、僕たちが今ここに先人の和歌を残したように、僕たちが死んでも、誰かがまた、これを伝えていってくれたらいい。それを、後世の人々が見て、僕たちが感じたのと同じ気持ちを抱いてくれたら…」
 これはありえません。
 何故か。
 昔と今とでは和歌の詠み方が違うんです。
 宮中の和歌には詠み方の正解がありまして、今でも伝えているのは例えばこういうところで見ることができます。
YouTube「【ほぼノーカット】宮中行事・歌会始の儀 お題は「望」 両陛下や皇族方がご出席」
https://www.youtube.com/watch?v=aTjtVnjAsxw
(私がこれ知ったのは、今でも続いてますがテレビ朝日系列で放送されている「題名のない音楽会」で黛敏郎さんが司会をしていたとき、俵万智さんの「サラダ記念日」がブームから、「宮中の和歌(短歌)の読み方と今の人たちの詠み方は全然違うんです」と採り上げたのを見たからなんです)
 私がさらに思うのがマンガ「パンプキン・シザーズ」第96話「5日目:不可逆文明」コミックス19巻収録に繋がっちゃったんですよ、この回で説明に採られていたのは手紙の代筆屋であり紅茶ですが、
「それしかなかった時代と、それ以外が現れて選択肢の一つになった時代とでは意味が変わる、それしかなかった時代には滅びてしまってもう戻れない」という指摘。
 それはどういうことか私の考えだと、その文化に唯一の正解、形式があった時代は内容だけが重要だったしそこが勝負のしどころだった、
 しかし唯一の正解、形式がなくなってその他の方法が許されてしまうと、内容だけではなく描写の仕方でも優劣が付けられるようになってしまうんです。
 いわゆる「本末転倒」が登場してしまう。
 京極夏彦さんが怪談の歴史を語るとき
「昔は不思議なことがあったと体験が語られるものであった、それに名前が付けられて、その後に造型が作られるようになった」と言っていまして、
 最初は不思議な体験をしてそれを他人に聞いてほしい、信じてほしい、「大変だったね」と言ってほしいという気持ちの持っていき方の話だったのが、変遷に変遷を重ねた結果「聞く人を楽しませる方向で怖がらせたい」となってしまっているんです。
 そりゃその土地の危険性を婉曲に、受け入れられやすいように怪異譚の体(てい)で語るとか、子どもを安全に怖がらせる意図で語るとか目的と手段の関係もありますが、それがその土地にいない人に、血縁も地縁もない人に語るのは、サロンの怪談ではないよなぁと。
 そして結社の怪談が広まり強力になっていくことで、
「伝統とは発見されるものである」論に収斂されていってしまう。
 何事もオリジナルのままではいられないのはそうなんだけど、残せるものなら残したいってのは無茶なのかなぁ。

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