怖い怖い怖い、本当に恐ろしい萩尾望都「一度きりの大泉の話」


・敬称はすべて「さん」にします。
・私は萩尾望都さんの良き読者ではありません。読んでない作品もかなり多いですし「残酷な神が支配する」「バルバラ異界」などは読んでいません。なので私が書くことに対して「この作品に描かれておるわ!ちゃんと読め!」ということがありましたら、すいません、始めに謝っておきます。教えてくださる方、ありがとうございます。(竹宮惠子さんの作品は…)

 この本はとても恐ろしいです。無茶苦茶恐ろしいです。三回言います、創作者にとってこの本は地獄の門です。開いたら元には、知らなかったときには戻れません。

 この本が出て話題になったとき、一番私の目を引いた紹介は「「私のジャンルに「神」がいます」(真田つづる、KADOKAWA)を数倍濃縮したやつか!」というツイートで、私も素人ながら小説を書いているので「ほうほう」と購入しました。

 一読して、まぁそんなもんだろうな、という感想。私自身インターネットが発達する前、掲示板形式のネットから電脳世界に入っていて、どこに住んでいるのかも誰なのかも知らない人たちが、衝突しながら適切な距離を探っていた時期を体験していましたんで、少女マンガで女性が活躍しようって黎明期にこういう衝突があったんだろうな、というのは理解の範囲内です。
 今の若い人たちは、ポケベルってご存じですかね、通話が出来ず数字の送受信ができる掌サイズの機械があって、数字を言葉に見立ててコミュニケーションを取った時代があったんですよ、07734をひっくり返してheLLoとか。大文字小文字が入り乱れたり日本語読みで4649をヨロシクと読んだりしたんですが、
「私が送信したのに、なんで返信してくれないのよ!」と、即返がないことにキレる人が続出し、新しいコミュニケーションツールが人の心理にどう影響するかというのは社会実験みたいな感じがしたものでした。
 なので才能ある女性たちが物理的に集まったときどんな対人反応が起きるか、その最初のケースとしては、まぁこんなもんだろうと。

 ところで、主観としては絶対盗作なんかしてないのに周囲から盗作呼ばわりされたときの心境って、藤子・F・不二雄さんが短編に描いたことがあります。
 プレハブ小屋でマンガ描き仲間が集まっておのおの作品を描いている、主人公の少年が屋根の上で一休みしていたら落ちてしまい、衝撃でテレパシー受信能力を身につける、そのことを知らずにまた屋上で考えていたらアイディアが浮かび、描き上げてみたら仲間の作品と全く同じ、みんなは(屋根の上でアイディアを聞いて、それで描いたんじゃないか)と盗作を疑う、「耳太郎」というお話。
 萩尾さんは前提が全然違うのですが、まったく意識してないところに盗作したんじゃないかと疑いをぶつけられて「はぁぁぁ?!」という心境は耳太郎君にも通じると思います。

 でまぁ書籍だけの感想はその程度だったんですが、録画していたNHKで放送された「100分 de 萩尾望都」2021年1月2日放送を見返しましたらね…

 うぎゃぁぁ!

 と。

 マンガ「ドラえもん」についての話題の中に、あなたにとって「ドラえもん」で一番怖い話は何?というテーマがありまして、みんないろいろ言うんですよ、「人食いハウス」が怖いとか「ゴルゴンの首」が怖いとか。
 その理由が、道具それ自体が怖いのもそうなんですが、藤子・F・不二雄さんの描写もまた恐ろしく、真っ昼間誰もいない場所に「シン…」という擬音語が効果的に描かれているとか怖さの構成がしっかりしていると説明されて、それはまったく同意なんですけど、
一人が「無人島へ家出」が怖いといいまして、その理由が、

 のび太は十年間その島にいて、ようやくドラえもんに助けられた、ドラえもんはのび太をタイムマシンで十年前の家出した日に戻し、タイムふろしきで十年ぶんの体を遡らせ日常に戻した、
 ということは、それからの「ドラえもん」は大冒険も含めて、のび太が活動活躍している世界の片隅に、もう一人ののび太が一人で助けを待っている、なのに当ののび太もドラえもんも、そんなのび太のことなぞ欠片も思わない、これは怖いと思う

 と書きましてね、私も(なるほど)と思って、ネットに
「こういうことに気がついた人がいた。確かに怖いね」と書いたら同意する人が多くて、やはりみんな怖いと思うのだな、と思ったのですけど、

 萩尾望都さんは孤島ののび太じゃんと。
 いや、萩尾さんへの賞賛はNHK「100分 de 萩尾望都」だけじゃないですけど、タイミングが合いすぎてしまって。
 萩尾さんの功績を賞賛する人は昔からいて、天才だ神だと賞賛している、しかし誰も萩尾さんの心を固く閉ざした部分を知らない、まぁ萩尾さんが言わなかったんだから誰も知らないのは当たり前なんですが、このNHK「100分 de 萩尾望都」でもちらっと大泉時代に触れているんですね、

ナレーション「上京すると同世代の女性漫画家と共同生活をしながら、創作漬けの日々を送りました。しかし出版社に原稿を持ち込んでも掲載してもらえない時期が続いたといいます
萩尾「いや没が2年ぐらい続いたんですけど、やっぱりすごく悩みました。いや私の感性は間違っていない、絵が下手なだけとか…。ちょっと、だから技術上げなきゃとかそっちの方に軌道修正をしながら。その時ちょっと描き殴っていた、何ていうかな、イメージイラストがここら辺ですね」
ナレ「そのころ掲載の当てもなく描き始めたのが「トーマの心臓」でした。きっかけは一本のフランス映画(フランス映画「寄宿舎~悲しみの天使~」1970年日本公開/ジャン・ドラノワ監督。寮制の学校を舞台に少年同士の愛を描いた作品です。キリスト教の寄宿舎での少年同士の恋愛悲劇)」
萩尾「その映画がとてもすてきだったのでやっぱり頭から離れられなくなって、一種言ってみればオマージュ的に、自分だったらこの続きを描きたいっていう感じで描き始めたのがその「トーマの心臓」なんです。
 そうしたらね、あの、びっくりしたんです。
 女の子はね、動くたんびに言い訳しなきゃいけないんですよ。おてんばだったり乱暴な言葉言ったり木に登ったりするたんびに。
 ところが男の子はそんなことしなくていいんですね。だからその時私はね、あっ、少年ってすごい自由なんだって、少女は不自由だけど。女の子はこうしなきゃいけないっていう自分で自分にすごい枷をつくっていたんだなぁと。
 実は自分、漫画を描きながらそれに気がついてしまいました。なんて描きやすいんだろうと思って、いきなり、その〝少年の自由〟に目覚めちゃったんですね」
ナレ「その後竹宮惠子が「風と木の詩」で少年愛を正面から描き「トーマの心臓」と共に元祖BL作品と言われるように。時を同じくして個性的な女性漫画家たちが次々と登場し、「花の24年組」と呼ばれるようになったのです」

 …はい、どうでしょう。
 萩尾さん、「一度きりの大泉の話」を書いたのは、書く決心をしたのは、この番組の前か後か。
 ちなみに「少年の名はジルベール」単行本が出たのは2016年1月27日。
 萩尾さんが言っている事は他のインタビューやこの「一度きりの大泉の話」とも全く変わらないでしょう、しかし萩尾さんの言ったことや功績が、外はどう見ているかといえば、ナレーションで言われたことでしょうね。この本が出るまでは。

 なので「大泉時代をドラマにしましょう!」と萩尾さんにしつこく言い寄っていた人ってのは、私たちなんですね、「私は頼んでない!」と言う人が多いでしょうが、じゃ知らなかった頃の〝私〟はそのドラマを見たくないと言い切ったか?
 もちろんドラマは原案だけでない、脚本だって演者だって重要です、変な脚本や大根役者を見せられるかもしれないんだから反対、という人はいるでしょうが、条件付き反対ならば、真っ当な脚本、きちんとした演技ができる役者のドラマだったら見たくないと言えたか。
 萩尾さんの断りはそんな条件一切関係なく、「思い出したくもない」レベルですから、潜在的に願望を持っていた〝私〟への「お断りします」なんです。
 もちろん〝私〟は知らなかったし、今はもう知っている、だから見たいとは思わない人が大勢となったでしょう、そしてそれは「孤島にのび太が一人で助けを待っている」ことを知って、助かって良かったと思うことであり、知らないところに別ののび太が助けを待っているかも知れないと想像することなんです。
(と言いますのも、実は私は作家の村山由佳さんのファンでして、萩尾さんがお母さんとの葛藤を作品にしたように、村山さんもお母さんとの葛藤を作品にしまして、許した和解したというわけじゃないけど、心に一区切りつけることにはなったと聞いているのですが、さて村山さんに竹宮さん的な人がいるのかいないのか、私は知りませんで、うーむと)

 さて、私がこの本を、とてつもなく怖いと思ったのは、実は上記のことではないんです。
 タイムリーに見た番組がもう一つありまして、

 NHK BS4K『いまこそ、シェイクスピア』2021年3月31日放送。
 BSプレミアムでも5月15日(土)夜10時30分~11時59分に放送されるようです、見まして。

 ます最初に書いておきますが、いわゆる〝古典〟というものは、単に過去の名作というだけでなく、後に書かれる作品の雛形になりうるものを指している、と思っています。
 シェイクスピアを好きな人の中には「全ての悲劇はシェイクスピアが書いている」という人がいるほど、「ハムレット」で男女の悲劇、「リア王」で親子の悲劇、「オセロ」で夫婦の悲劇、「マクベス」で欲・地位の悲劇ですかね、描いていまして、後世の多くの作品に影響を与えている、多くの作品に換骨奪胎されております。
 ちなみに、漫画であらゆる性行為、性的嗜好は手塚治虫が描いているという人がいるとか、これは編集ですが、推理小説の世界ではトリックは出尽くされている、新人が新しいトリックを思いついたと思って一応江戸川乱歩が書いたトリック分類表を見てみるともう書いてる人がいて落胆するとか、「太陽の下に新しきものなし」という言葉(この言葉自体、旧約聖書!)は創作の世界にも強く被さっているのですが…

 ちなみにシェイクスピア戯曲をいくつも演じている吉田鋼太郎さんが、
「リア王の悲劇ってさ、同居してる娘から邪魔者扱いされて追い出される現代のお父さんと全く同じ構図なんだよ、現代のお父さんは家を追い出されて雨の中とぼとぼと歩くしかないんだけどリア王は雨天に拳を突き上げて「ばかやろー!」と叫ぶ、全国のお父さんの心境を代弁してるんだよ」てな主旨のことを言っておりました。
 「現代人にも通じるシェイクスピア」ですね。

 萩尾さんは自分の心に負った傷をテーマとして描いたこと、あります?私は知らないんです、けど「100分 de 萩尾望都」で、ざっくりとですが
「トーマの心臓」で少年観を表にしてのその他(ただしBLは除く)
「半神」で自意識と客観、
「イグアナの娘」で母娘問題、
「バルバラ異界」で生命とか不老生死、(これ読んでないです)
「ポーの一族」で少年性と永遠の命を解説して、

「イグアナの娘」なんて精神科医斎藤環さんにインタビューにいって
「ご自身のナラティブ(物語として語ること)として表現するってことが、ご自身の葛藤やトラウマを浄化するという面はもちろんあるとと思いますけれども、そんなもんじゃ済まないぐらいのレベルですよね、これはね」
「トラウマが1だとしたら浄化が100ぐらいになってる感じでですね」
「トラウマという誰もが持っているものをきっかけとして、それを創造の糧とするパワーがあまりにもすごいので驚かされますね」

 と語ってもらっているのに、竹宮さんからぶつけられたとおぼしき「嫉妬、それも才能の」をテーマにした作品はあるのか、竹宮さんから言葉をぶつけられて自分が感じた〝何か〟を掘り下げて作品にしたことは…これは無いんでしょう、
 それは、
 すでにある物語の雛形、参考に出来る古典が無いのか、少なくともシェイクスピア作品には才能に嫉妬して自分をどうにもできなくなる作品は聞いたことがないな、いや私はシェイクスピアにも暗いからあるのかもしれないけどさ。
 で私が読んだ狭い範囲での小説や漫画で、嫉妬について興味を誘う描写といえば、

村上春樹「品川猿」、美しくスタイルも良く聡明でお金持ちの家に育って素敵な彼がいる、そんな下級生女子が突然語り手のもとに来て〝嫉妬〟について話す、語り手は嫉妬なんて人並みのものしか持ったことがないが、下級生は自分を嫉妬の固まりだという、

手塚治虫「火の鳥鳳凰編」、茜丸が我王の腕前に嫉妬する。我王の罪を告発することで自分の立場を守り溜飲を下げる。

真田つづる「私のジャンルに「神」がいます」、二次創作をやっている女性たちの悲喜こもごも、プラス「おけけパワー中島」という読む才能の持ち主への嫉妬。

 あと関係が拗れてしまったら、という if で「ガラスの仮面」をいう人がいまして、ならば関係が拗れていたら「エースをねらえ!」もそうかな。
 他にもあったけど、今思い出せるのはこれくらい。
 あ、「オセロ」は男女の嫉妬の話でもありますね。才能の嫉妬ではなく。

 これらの作品を、私は面白いと思いますが、後世の創作者に雛形たり得るかといえば難しいところでしょう、萩尾さんもこれらの本を読んで、手法を参考にしようとは思わないと思います、
 自分の心のモヤモヤを漫画に描きたい小説に書きたいと思ったとしても、乗せられる雛形が無い、ならばクリエーターならば、自分がその雛形を作りたいと思うのが業(ごう)とか性(さが)だと私は思うのですが、萩尾さんは描かない、描けないんです、大勢が天才だの神だという萩尾さんが描かないし描けないんです、えぇー!!てなもんですよ、
 いや、描く人はいるでしょうよ、私が知らないだけで描いている人いるでしょうし、これからも描く人はいるでしょう、しかしその人が萩尾さんレベルの作品で描けるのか?他の人の雛形なりうる作品を描けるのか?そこが問題なんでだと思うのですが、

 ただですね、萩尾望都という人は別に天才でも神様でもない、ただ好きなことを、ただ一生懸命やっている人だというのなら、話は違います。
 萩尾望都という人はトップランナーになっちゃったけど、別にトップランナーになりたかったわけではない、描きたいことを描いてるだけで描かなきゃいけないことを描いているんじゃない、雛形足りうる名作は他の人に頼んでください、と思う人が増えれば増えるほど、描きたいと思わないものは描きたくないと、萩尾望都という人は楽になるでしょうね。

 しかし…しかし、ですね、万が一竹宮さんが描いちゃったら、どうなっちゃうんでしょう?

 あと、大泉サロンに行ったことがある大勢の漫画家、今まで言ったり書いたりしなかったんですかね?ここは単純に解らない。大勢の漫画家は萩尾さんと竹宮さんの関係を深い浅いはあるけど知っているんでしょう、口をつぐんていた・いるのかな?

藤子・F・不二雄「耳太郎」ネタバレ解説
https://fujiko-shortcomic.com/mimitaro/
Twitterに書かれる感想が、なかなか。

2021年5月4日追記
あのさぁ、ただの思いつきで根拠はないんだけどさ、#少年の名はジルベール が出たのって2016年1月、文庫化が2019年11月でさ、Twitter検索欄で「少年の名はジルベール」検索すると、感想に大泉サロンを書いてる人はもう大勢いるわけじゃん、#一度きりの大泉の話 がそのアンサー本って、おかしくない?
#一度きりの大泉の話 が出る直前に #100分で萩尾望都 が放送されたのって偶然か?萩尾さんがさんざん書いてる「しつこくドラマ化を持ってきたテレビ人」って、NHK じゃないか?この本は竹宮さんに向けて書いたんじゃなく、NHK に向けて書いたんじゃないか?
#100分で萩尾望都 はあれほど克明に「イグアナの娘」で萩尾さんが母親とのことで負った心の傷を作品にしたことを分析したのに、大泉の触れ方は無神経というか、ズレがある。#一度きりの大泉の話 はNHK が流した誤解の是正じゃないか。
萩尾望都さんにとって竹宮惠子さんとのあれこれはもう終わった話で、世間から誤解されても(萩尾さんもBL作品描いてるということも含)相手にしないが、NHKが「朝ドラにしましょう!」としつこく、外堀も埋めていそうだから #一度きりの大泉の話 を書いたんじゃないか。
NHKはまず竹宮さんにドラマ化の話をもちかけた、で竹宮さんは考えて承諾したのかもしれない、でも大泉の話で萩尾さんは欠かすことが出来ない存在だから萩尾さんにも了承を得ないといけない、その過程で、ドラマ化することを前提にプロモーションも計画され、#100分de萩尾望都 が企画され、二人の対談も企画された、萩尾さんは#100分de萩尾望都 は了承したけどなんか風向きがおかしい、NHKは既成事実を進めて
「もう話はすすんじゃってるんですよ、あとは萩尾さんの了承だけなんですよ!」と強引に迫ってくる、それでこの本が世に出ることになったのではないかという根拠のない私の妄想。
追記終了

2021年6月24日追記
本屋で新潮文庫「私の少女マンガ講義」てのを手に取ってみたけど、「一度きりの大泉の話」読んだ後だと竹宮惠子さんに一切触れてなくて背筋が凍った。萩尾さんには自然なことだが聞いた方が疑問に思わないのか。
「私の少女マンガ講義」、amazon のデータが正しいのなら2018/3/30に親本が出ていて、もうこの頃から竹宮さんへの敵意は出てたんじゃん、そこを仲裁しようとしたテレビマンの思いよりも、2018年にこれを話題にしなかった萩尾ファンってどこを見てたんだ?
日本少女マンガ界に竹宮惠子が存在しない世界に生きているってのもナチュラルに怖いのだが、それを指摘しない聞き手は萩尾さんをなんだと思って聞いていたんだろう。(さらに2021/11/29追記:どういうことかというと、萩尾望都さんに日本の少女マンガの歴史をインタビューした人がいるんですよ、萩尾さんが竹宮さんに触れないのはまぁ仕方がないとして、萩尾さんの頭の中の日本少女マンガ史に竹宮惠子が存在しない、そのことにインタビュワーが突っ込まないのはおかしいでしょ)
2021年6月24日の追記終わり

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