強迫的な

 この指先は、確かに、触れているみたいだった。

――誰もいない、誰もいない空間だった
 暗い、誰もいない第二体育館、暗がりの中に沈み込む彼女が一人、ぼんやりと幽かな明かりに縁取られている。
 生きている意味も無いのかも知れないとそんなことを思いながら、歩いていた頃、何故だろう、静かなそこに吸い込まれるみたいにして彼女に出逢い、触れたくなった。
 それでも彼女は触れがたなかった。
――目立つ子ではなかったと思う
 そんなところで踊りをしていた彼女であるけれども、普段、彼女が目立つような、たとえば受賞したり席次が上位であったり体育大会のときに活躍したり恋騒ぎを起こしたりするような子ではなかったと思う。
 ツイッターやインスタのフォロワーが多いとかそんなこともなく、面白いことを言ってクラスメイト達を湧かせる訳でもなく、何らか話題を提供するような子ではなかったのではないかとそう思う。
 それでも彼女は暗がりの中、一人沈み込み、蹲るような姿勢をしていて、それからうなじを遠くへ伸ばすようにして立ち上がり、足を高く蹴り上げて、そこからはダンスダンスダンス。
 暗闇の中で動き、踊り回る彼女は軽やかに確かなステップを踏んでいて……。
 その仕草は、確かに何かを思わせた。

 湖面に映る彼女は月明かりに濡れていて。
 それがひどいくらいに記憶の中に浮かんでいるのだ。
 そのときにはいつも鳴き声を上げる鳥達も静かになっていて。
 そうして彼女は矢張り踊っていたのだけれども、それがあの彼女だと理解するのはその随分後のことで。
 同じ学校に通うことになるだなんてその頃には思いもしなかったので、それまでずっと忘れていた、あるいは忘れようとしていたのだった。
 ダンスダンスダンス、誰か無意識の内に手を振りステップを踏み、斬新なダンスを踊ってくれないか? それには、きっとそれに相応しい曲が必要になるだろうと思うのだけれども。けれども、そのダンスから奇想の音楽が流れて聞こえるようで、しかし難しいに相違無いそれを、彼女はしているようにも思わせたのだった。

 先生と付き合っているとかいないとか、そんな噂が聞こえてきたのがどこか遠くから聞こえるみたいだった。そうしてそれは拡大してどうにも破廉恥なダーティーなものへと変えられ、尾ひれが付けられ泳がされているみたいだった。
 それはそれとして思春期や十代の子供というのは如何わしい噂を、付き合いの無い女子を相手には立てるものなのだということを知ったのはその後のことで、その噂が立ったというのでもなしに、何度か見掛けている筈の彼女のことを知ってみたいと思い、声を掛けたのが十月の頃だったろうか……?
 それは八月の残滓の日差しの降りかかるあくる日のこと、我々は川の流れを前にし、どこかのカラオケ店から聞こえてくる歌声を耳にしながら、邂逅を果たしたのだった。
――邂逅、休日のことだったから……
 けれども、彼女は制服を着ていたように思う。
 僕の通っていた学校には制服と私服両方共あったから。何度か、その姿を見掛けていたのだけれども。
 制服を着ていると男の人から声を掛けられやすくなるとか、それはクラスメイトの女の子達が話しているのが聞こえていてそう知ったのだけれども、それでその出で立ちは彼女の噂の裏付けをするようであった。
 ……それはどこか人に見られることに慣れたような目線であったとそう思う。どこか自分が悪いみたいに、僕の方を申し訳なさそうな目線で見ているのだった。
 それは若しかすると、可能性を感じないで欲しいとか、あるいは拒絶を遠回しに伝える為の表情であったのかも知れないけれども、意外に彼女は話したのだった。
 それはどこか言い訳めいた口調で、何か悪いことをしているのを見咎められた訳でもないのに、悪事の現場を捉えられた訳でもないのに、彼女は早口になって何度か川に入ったらしい足を、振りながらも、こちらの声に応え、幾らか意味の無い言葉を話していた。
 それは果たして昼日中のことであったのだけれども、夜の間にまた逢うことになる。
――それはいぶかしむ目線であった
 まるで僕のことを知っていると、顔を覚えているような顔をしていたのだが、しかし、何度か逢った程で人の顔を覚える人がどれ程いると言うのだろうか? 彼女は僕のことを知っていたらしい。
 インスタとかツイッターに面白半分に僕の写真を載せた奴がいるからなのかも知れないが、それが実際どれ程広まっているのか僕は知らないでいたし、誰がどれだけ人に知られているのかなんて結局のところ、誰も分かっていないのではないかと思う。
――彼女の顔立ちはきっと、裏側では写真が出回っているのに違いないと思わせるようなものであって、いたずらめかすように顔をくしゃっと丸めて笑みを浮かべる姿が、彼女自身もそのことを知っているに違いないと思わせるものであったのだが、彼女はきっとそれを作為的にしたのだろう
 仮面めいた顔が夜闇に消えるのが、そのすぐ後で、僕もまた潮香の漂う街の中へと消えていった。
 よく逢うようになったのは何故なのだろう。
 二人はよく逢う、それはどこか運命めいたものを感じさせるものでもあった、のだと誰かなら言うのかも知れない。
 たとえば流行歌に身を任せて肩を揺らすクラスメイトの彼女であったのなら。
 あるいは東京へと出逢いを求めて趣き彷徨うあの彼女であったのなら。
 カフェの店員とのやり取りを友達に話していた彼女であったのなら。
 そういったことはあり得たのかも知れない。
 それでも彼女は誰にもそのことを言っていた訳ではなかった。

 さて、先生との恋愛や色事の件はそうだった、らしい。
 二人はよく歩き、そのことを写真に残されてもいて、彼女はどうやら結婚の為に学校を辞めるとか言ってもいるようでいて……。
 男子達がそんなことを噂にしているのを聞いたのだった。彼らもまた彼女のことを知らないでいたみたいで。
 そうして確かに、彼女の写真が裏で出回っていたことは確かであったようなのだが、彼らはそういったことについて知らないでいたようだった。
 ファンというのは少数の人間が成るものだ。その人が結構知られている人であったとしても。

 それで相手の先生というのは随分と話題になっている人であったそうだ。女子達が噂にしているような、授業の後で目が合ったとかどうとか話されるような。
 話題に上がるような人で、彼の車に乗せられることは一部の女子達の憧れになっていたらしい。
 そうして、その座を彼女は獲得したという訳だ。
 しかしながら彼女の本人の談としては恋愛の件については否定していた。
――二人で歩いていた……、という問いには是の答えが返ってきていた
 夜の街で逢わないように、僕らは互いにしているようであったが、それでも邂逅を果たすことはよくあった。
 そうしている内に焦点のようなものが出来てきて、此処にこの時間に行けば居るというのが二人の暗黙の了解のようになっていたのが、若しかすると言葉の成り立ちに立ち会ったときであったのかも知れない、僕はともすると、寂しかった彼女の話し相手に選ばれたのかも知れない。
 そうして、二人は話す内、件の先生のことを話題に出すようになっていて、あるいはそれは彼女が質問をするように促したのであったのだけれども、そこで彼が彼女にとってそれ程恋しい相手ではないことを知ったのだった。あるいは恋しい相手ではあるけれども、恋仲ではないといったところだろうか?
 二人は、何故、話していたのだろう。

 それはそれとして、そう、直截的な、話を聞いた。
 ダンスをしている女子は身体が靱やかだから、とても魅力的なそれはそれは欲望の眼差しで見てしまうような肉体をしているのだとその教師が言っていたことも、そういった小学生を相手に欲情し手を出した経験が彼にはあるということも、彼女は僕に話していた。
 東京の方へゆき誰も知らない筈の匿名の男性に成り済まし、自分が酒を奢ると言って夜遊びをしていたり漫画喫茶に寝泊まりをしていたりするような女の子を誘うなんてことを彼がしていたということも、昔どうしても殴り続ける父の幻影から逃れられないなんて言っていた同級生を彼がいじめていたことも、彼女は話して聞かせてくれていた。
 それだからどうしてだろう、彼女の周りには噂が立たず、誰とも交わらないでいても話題に出されなかったという、それらが教師の手によって裏から手が回されていた為だということも。
 それから、彼女の噂が立ったことは詰まり、クラスメイト達に裏切りをしていた者がいるということも、教師が果たして裏切ったのか彼女に裏切られたと思ったのかということも、そうして、ややもすると嫉妬をしたり男子達に彼女を恋い慕う者がいて件の先生の足を引っ張ろうとしていたりしたのかも知れないなんてことも、そういった話を聞いたから、ともすると情報が欲しいのかも知れないなんてことを思わせもしたのだった。
 それは夜の川辺のことであったのであって、遠くに橋の下高校生達のまぐわう声が聞こえるときのことで、それで二人は足を運んで河口の方へと向かっていったのだけれども。
 何故か、それは二人、声が聞こえる毎に小さな笑いをあげていて、それがしかし、どこか滑稽さを味わわせるということを、どこか二人、噛み締めてもいるようで。
 それは小さなレジスタンス、二人だけのささやかな反逆、夜の闇に輝く月の下でのある笑い。
 トーク・アンド・ダンス。
 何をするでもない二人の歩調を合わせた歩みがしかし、誰にも聞かれもせず、撮られもしない、秘密の歩みだと気付かされて、それが何故か波の音に洗われてきっと不可思議なことなんだという雰囲気が漂う中で、目的の無い彷徨が、風の冷たさに耐えかねるようなものに成りゆくところで、別れてしまったのだ。
 くだらないくだらない、なんて彼女は言っていたのだけれども、それは何だろう、何故なのだろう、彼女の本音でもあり強がりでもあるようだったのだが、何とも寂しい冬の初めの夜です。