コミュニケーション過剰
キャラを作っているとか、パターン的なやり取りをしているとか、言われれるようになったけれども、コミュニケーションが過剰化されれば効率化、定型化されてゆくのは当たり前のことなんじゃないだろうか?
コミュニケーションが溢れた社会になればそれだけやり取りや対話の内実が豊かになるというのは、それまでコミュニケーション可能性の存在していなかった前提――閉塞的な村社会、共同体での、同調圧力ばかりが強い――からすればという話であって、コミュニケーション可能性が豊かになることと、コミュニケーション過剰とを混同することからこういった混乱が生じているのではないだろうか?
結局、コミュニケーションという言葉は外来語であり、何も意味していないのである。……それが意味するものは日本に根付いていはしない。
コミュニケーションの定型化、こう言って差し支えないのなら事務手続き化を齎したのは、取りも直さず”コミュニケーションの強制”なのではないか?
それにこれだけ出会いが溢れていると、自分の好きな相手とだけ付き合うことだって出来るに違いない。
”ツイッターにおいては自分にとって都合の良い相手としかつながりを持たない”、とか言われるけれども、寧ろツイッターというのは、リアルでのやり取りを反映しているだけではないのだろうか?
どこかの物理学者が「数式化されるのではなく、図式化されればそれで数学的表現と見做せる」というようなことを言った、らしいのだけれども、何らかの哲学的概念や人文学的表現も、図式化されて表されれば(古代ギリシャにおいて、論理を意味する語と、言葉を意味していた語が同一の語ロゴスであったように)、それが論理化の端緒になるのではないだろうか?
……あるいは理論の可能性、もしくは新しい理論的表現とでも言うべきだろうか?
その点、コミュニケーションの過剰が齎す定型化、”キャラを作る”とか、”既に用意された筋書きをなぞるようなやり取りをする”というのは、一種の科学化の可能性を秘めていないだろうか?
詰まり、コミュニケーションというのは図式表現可能なのではないだろうか?
それも、コミュニケーションの背後には経済が絡んでいるという話もある。
コミュニケーションが経済的なものであるのならば、数値化されることもまたあるに違いない。
……SNS社会がやって来てもいることだし。
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尚、Wikipediaに『キャラ(コミュニケーション)』という記事があり、まとめられていたので、実際キャラ論とかスクールカースト論、行為論などは研究が進んでいるのかも知れない。
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昨日、上のノートを書いたけれども、世の中にはコミュニケーション学というものもあるそうだから、……こういった人間のやり取りも科学化されるというのなら、分析哲学者達もコミュニケーションと言語を扱うことが可能になるのだろう。
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話を変えれば、コミュニケーションの語源というのは「共に、贈与する」であるらしい。
また、相互に考えを変えることらしい。会話して相互の認識が変化することを意味しているのだそうだ。
……情報の共有があれば新しい知見を得ることもあるのかも知れない。
そういう意味においては、共同体communeとか、シェアする、共同財を作る、という側面ばかりを強調するというのは、コミュニケーションという語を捉える上であたらないということになるだろう。
そういった意味合いを強調すると、寧ろ”共に変化する”とか、”相手と自分が異なる考えを持つ”というcommunicationの意味合いが薄れてしまうことになるだろう。
同質的な者同士では互いに変化する、交通するの意味合いも薄れてしまうに違いない。コミュニケーションが経済的なものであるとすれば交換(シェア)の持つ意味合いも薄れてしまうことになるだろう。
結局、日本においてはコミュニケーションというと、同調圧力にしたがう、忖度する、空気を読む、という言葉の言い換えに過ぎないことがよくあるということになるだろう。
官僚主義的な流れにしたがうとか、事務書類的な手続きにしたがうとか、そういったことだろうか。
これは村社会的な、前コミュニケーション時代的な文化が未だ根強く残っていることに由来しているものだろう。
大阪大学社会経済研究所教授の西条 辰義氏の日本人のフリーライダー性とスパイト行為に関する研究と、それから北大の竹村幸祐氏らがした日本人の集団主義を支える制度と心理に関する研究が、このcommunication, 共同性、シェア性といったものを強調しがちな日本人の特徴を上手く説明してくれるような気がする。
シェアは詰まり、”脅迫により出させること、自分は出さないこと”、”奪取”に近いと言えるだろう。
少し前に『無償での情報搾取』というブログ記事がネットで話題になっていたけれども、これもそういった例の一つだと言えるだろう。
尚、シリコンバレーやシアトルのIT技術者達に対しても、情報や技術的知識の無償のシェアを日本人達は求める傾向にあるそうだ。……話だけ聞いて取引はしない。新しい知識と情報を奪い、また時間を奪ってゆく。それで日本人は敬遠される傾向にあるらしい。
コミュニケーション-経済性というのはビジネスシーンにおいても顕著になるのかも知れない。
大企業主義とか官僚主義的なものが、幅を利かせているとこうなるのだろうと思われる。
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スクールカーストがある、というのは、実際、”誰かがその人の属するカースト層から出過ぎた行為をしてはいけない”、ということでもあるのだろう。
こうして官僚主義とか権力闘争とか、カースト制度とか、偏狭的な態度が幅を利かせるようになると、また”奪取”が横行してもいると、コミュニケーションがパターン化されるのではないだろうか?
スクールカースト、偏狭性、官僚主義、日本人のフリーライダー気質、スパイ行為を好む気質、そういったものがある種の公共財とか、平均的なものを作り出しているのかも知れない。
実際、コミュニケーション能力が高いとか言われて、得をしているのってそんなに努力していない人達ではないだろうか? 寧ろ、”友達”を増やすことが一つの技術になっているような人達……。
また、コミュニケーション能力を求められているときというのが、他人の起こした人間関係上のトラブルに対処することを求められているときという場合も多い。
結局、共同財を作るとか、空気を読むとかいう意味合いの強いコミュニケーションという言葉は、一種の階層構造、カースト制を前提としていることになるだろう。
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こういったコミュニケーション制というのは、ニコニコ動画などでも顕著になっている気がする。
そもそも同人市場的なもので、それも他人からパクったようなものが横行している。
これは小説投稿サイトにも言える。こちらはパクリが横行している。
ちなみにカクヨムとかいう小説投稿サイトの運営はパクリ違反を報告しても当該の作品を取り消さなかった……。”小説家になろう”とはかなり異なっているようだ。
結局、自分達にとって都合の良い”仲間”達の間で、誰かから奪取したものを流通させているという点については変わらない気がするのだ。
それというか、そもそも”パクリはしてはいけないんだ”という意識を持っていない人達もいる。「何でパクっちゃいけないの?」と言う人もいるのだ。
実際のところ、自分達にとって都合の良い人としかつながりを持たないというのは、コミュニケーション回避的なのだろうと思う。
「あいつらとつながるの嫌だよな」「そうだね」
といった形で仲間意識を作っているのではないだろうか?
これは結局、仲間を持たないことから不利な立場に置かれることを回避しようとしているだけではないかとも思える。
異質なものと接触することが忌避されていると言ってもいいことだろうと思う。
詰まり、小さな共同体を作る自由を日本人達は得たのかも知れないけれども、共同体そのものから逃れようとはしてはいないのではないかと思う。
上述の西條氏や竹村氏らの研究の結果においてもそうだったように、日本人は”タダ乗り”したがる特徴を持っている。……そうであるから、寧ろ、奪取する為の何かを求めているのではないか、と思ってもみる。
西欧的個人主義への転回などと言われているけれども、一方で欧米圏においては社会的弱者への制度上の救済が手薄という話もある。
多分、日本人の大部分が転回を拒否する、もしくは転回することが出来ないのではないかとも思えるのだ。
コミュ力を要求する、コミュニケーション能力を高めるよう強制するというとは、圧倒的多数派である年長者達の押し付けにしたがえということであったり、群れに奉仕しろという脅迫であったりするのかも知れない。
「お前、コミュ障だな」という言葉も、「お前から奪取してやるからな」もしくは「村八分にしてやるからな」という脅しと取れる。
ノリにしたがえとか、キャラを作れとかいうのも、”村”に溶け込めもしくは奉仕しろという脅しであるのかも知れない。
実質的には他人の人格の否定と言っても差し支えないのではないか? そういうパターンばかりではないけれども。
そうしていた方が一つのシステムを運行する上で都合が良いのだろう、……システムを優先させろという言葉とも取れる。
インターネットは寧ろコミュニケーションのネットからの逃避場になっているのではないかとさえ思う。
冒頭の問いに戻ろう。コミュニケーション過剰だからこそ、キャラを作るのではないか?
詰まり、それだけみんなコミュニケーションを嫌がっているのではないか。
そこにあるのは仲間との自由な遊び(ある種のプライバシー性を保持したフレンドリーなやり取り)と、形式的なコミュニケーション、それから奪取ではないかと思えるのだ。