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『月の沙漠の曽我兄弟(8)』

 不意に、和田義男宅の居間に流れるジャズのメロディーが、『月の沙漠』であると、大吾は気付いた。

 その歌を中学校での音楽の授業で聴いたことがあった。しかし、和田邸の居間に流れる月の沙漠は、記憶の中の月の沙漠よりもアップテンポで、情緒に乏しかった。

 なぜ「砂漠の月」ではなく、「月の沙漠」なのだろう。

 砂漠に浮かんでいる月を頼りに駱駝に乗った旅団が砂漠を行くのなら「砂漠の月」が相応なタイトルだっただろうが、「月の沙漠」となれば、大吾は月面に広がる無限の岩場を連想せずにいられなかった。そうとなれば、あの暗いトーンのメロディーも、闇に包まれ、死の臭いしか感じられない月面によく似合っている気がした。

(金の鞍には銀の甕。銀の鞍には金の甕。二つの甕はそれぞれに、紐で結んでありました)

 知れ渡った一番の歌詞ではなく、大吾は二番の歌詞をよく覚えていた。

 旅団とは言っても駱駝は二頭。それぞれに甕を携え、一頭には王子、もう一頭には姫が乗っていた。二人は、月の沙漠を延々と進む。国を追われて逃げているのかもしれなかったし、新天地を求めて希望に満ちあふれていたのかもしれない。でも、歌の中で彼らはどこにも辿りつけない。

(広い沙漠をひとすじに、二人はどこへ行くのでしょう)

 この歌は、きっと諸行無常を歌っているのだと、父親を失った中学生の大吾は、音楽室でただ一人心に痛みを感じていた。

 兄の純一は金の甕で、自分は銀の甕だ。純一は王子で、自分は姫だ。兄は先を行く駱駝で、自分は後を追う駱駝だ。でも、自分たちが何者であったとしても、どれだけ歩いたとしても、どこにも辿りつけない。

 若気の至りで父親の復讐を誓ったものの、何をどうしていいのかなんてわからなかったし、仮にいつか復讐を果たせた時に、果たして自分たちに何が残るのか、大吾はずっと自問自答してきた。

 そして今、目の前にいる野心的な小説家が、大吾の願いを叶えようとしている。

「河津大吾。それがお前の本当の名前だ。違うか?」

 和田にそう問われて、大吾は何も答えることができなかった。

河津大吾。大吾自身ですら忘れかけていた名前だ。しかし、その名前を突き付けられたことで、終着のない旅路に一陣の風が吹いた。

「なんで、あんたがその名前を知っているんだ?」

 再び大吾が獣の眼に生気を湛えると、和田はうれしそうに笑った。

「お、大人しい新米編集者が、作家先生を『あんた』呼ばわりかい?うん、、嫌いじゃないね。流石は三郎さんの子だ」
「なんだって!?」

 大吾は混乱していた。

 今まで仕事の上で自分を翻弄してきた作家が、今度は自分の人生に踏み込んできて、大吾を惑わせている。和田が大吾の素性を知っていることは、ほぼ間違いない。では、いつからだ?北条出版に入社してからか?和田の担当になってからか?それとも、もっとずっと前から……?

 しかし、それよりも大吾を混乱させたのは、果たして和田が自分の味方なのか、敵なのか、まったく見当がつかなかったからだ。まさか、狡猾な工藤が根回しした罠なのではないのか?そう思うと、大吾は迂闊に二の句を継げなかった。

「月の沙漠」の歌詞は、こう結ばれている。

(朧にけぶる月の夜を、対の駱駝はとぼとぼと、砂丘を超えて行きました。黙って越えて行きました)

 兄の純一は敵の工藤がいる源田印刷に乗り込んでいったが、果たして今も父の復讐を果たそうとしているのか、確かめることはできなかった。この九年の間に、純一にも守るべきものができて、思春期の拙い誓いなど忘れてしまったかもしれない。だとしたら、自分はどうすればいい。

 草木も生えない死の砂漠は、二人が対でいたから歩いてこられた。その砂丘の先には光も希望もないかもしれない。でも、兄弟ならば乗り越えられるはずだった。でももし、自分一人となってしまったのなら……。

(オレは、深追いし過ぎてしまったのかな)

 大吾は、家を離れていく十八歳の兄の面影を思い返しながら、心細い気持ちになった。

「源田印刷のルポルタージュはほぼ書きあげている。あとは仕上げをするだけだ。そして、工藤の悪事を世に晒す」
「仕上げ?工藤の悪事?なんで、和田さんが?」

 意気消沈しかけていた大吾は、顔を上げて和田を見た。

 和田は、しばらく大吾の瞳を見つめた後、その視線を昼下がりの陽光が差し込む窓に向けて呟いた。

「それが、三郎さんの遺志だからさ」

 居間にはもう「月の沙漠」は流れていなかった。レコードに収録されていた次の曲は、トランペットとテナーサックスの陽気なメロディーだった。重苦しく淀んだ居間の空気に、その曲はとても不似合いだった。

『月の沙漠の曽我兄弟(9)』につづく…。

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