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『月の沙漠の曽我兄弟(9)』

〈前回のあらすじ〉
 
 和田の自宅で、大吾は「月の沙漠」のメロディーを耳にし、自分がどこに向かっているのか、どこにも辿りつけないのではないかと苦悩する。

 すると、思いがけないことに和田が大吾の父の名を口にし、大吾は心を乱した。

 9・梶原景一、命を預ける

「なんですか?曾我という名が、それほど珍しいですか?」

 親の借金のカタに身売りされて奉公に来た小僧を品定めするように、したり顔で自分を見上げた佐々木を純一は睨み返した。

「うん、悪くない。いい目をしてる」

 嬉しそうに一人合点した佐々木は、純一の苛立ちを気にすることもなく、散らかった机の上のメモ用紙を取り上げ、何かを殴り書きした。

「ほら、ここへ行ってみな」

 その紙片を差し出し、戸惑いながら純一がそれを受け取ると、もう目の前の男には用はないとばかりに、佐々木はパソコンの画面に映し出された校正中の原稿に没頭した。

「こちらの話もろくに聞かないで、なぜここに行けと?」
「あの週刊誌の記事は、そいつが書いたんだ」

 もう自分の出番は終わったとばかりに、佐々木は吐き捨てるように言った。

 純一は佐々木から受け取ったメモ用紙に目を落とした。

〈和田義男〉

 見覚えのある名前だと思い、記憶を辿ると、いつかの芥川賞の候補に挙がった作家であることに思い当った。

 しかし、なぜ自分がその作家に会いに行かねばならないのか、純一は見当もつかなかった。ただ、その答えを尋ねようにも、もう目の前にいる佐々木は純一に関心を示さず、そこにいないものとみなして、原稿のチェックに没頭していたので、引き下がる以外になさそうだった。

 小さく会釈して、積み重なった雑誌や今にも倒れそうなほどに積み上げられた段ボール箱を避けながら、純一は編集部を出ていった。佐々木はラップトップパソコンの画面越しに、遠くからそっと純一の背中を見送った。

 北条出版を出た純一は、佐々木から教えてもらった和田義男の家に向かうために新宿駅のホームに立った。

 太陽は中点を過ぎ、少し傾いた春の陽光をホームに注いでいた。その日差しが、ホームで電車を待つ純一のスラックスの膝下と黒い皮靴を仄かに温めた。

 純一は再び佐々木から手渡されたメモに目を落としながら、自分はいったいどこへ向かい、何をしようとしているのか、自問自答していた。

 やはり工藤は懲りずに源田印刷でも平井プリントで起こしたのと同じ悪事を繰り返そうとしていた。これでは、工藤に裏切られた父の三郎が何のためにあれほど苦労して会社を立て直そうと走り回ったのか、わからないではないかと、純一は苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。

 父の死の上に工藤の強欲がのさばっているかと思うと、純一の身体の中で燻っていた復讐の炎が再び立ち上がりそうだったが、すでに週刊誌でその悪事が暴かれようとしている今となれば、もう意気込みばかりで大した武器も持っていない自分には、何もできることはないように思えた。

 もしかして、母親が復讐を望まなかったのは、自分が手を下さずとも、工藤の悪事はやがて公に罰せられることを予感していたからなのかもしれない。そして、行方知れずの大吾も、もうとっくに復讐などに見切りをつけて、新しい人生を歩んでいるのかもしれなかった。自分に音信の一つも寄越さないのは、いつまでも父親の復讐などと息巻いている兄を蔑んでいたからかもしれないと、純一は肩を落とした。

 そう思うと、純一は全てがどうでもいいように思えてきて、深いため息を漏らした。

 やがてホームに中央線の電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。純一は我に返り、手に持っていたメモを、ジャケットのポケットにしまいこんだ。

 顔を上げ、電車がやってくる方に顔を向けると、そこに小柄な中年の男が木偶のようにホームの端に突っ立っているのが目に入った。

 その男には全く生気が感じられず、ホームの景色の中でそこだけが色彩を失っているようにすら見えた。僅かに横顔は見えるのだが、その横顔さえ粘土細工のように血の気を失っていた。

 ホームの向こう側から電車の走行音が徐々に迫ってくると、純一は何だか嫌な予感を感じた。するとその矢先に、その男がフラフラと身体を揺らし、線路に向かって足を踏み出したのだ。

 純一は肝を冷やした。気が付いたときには、純一はその男に向かって脱兎のごとく駆けだし、男の腕を掴んで引き寄せ、済んでのところでホームに落ちるのを救った。純一が男ともつれあうようにホームに倒れ込むと、ホームに入ってきた電車が起こしたつむじ風が純一の髪を舞い上げた。

「なにやってんだ!」

 明らかに純一よりは年上に見受けられる中年ではあったが、純一は周囲にできた人だかりもかまうことなく、電車に飛びこもうとした男を怒鳴りつけた。それは、会社が立ち行かなくなって自らの死をもってその保険金で家族を救おうとした父親の二の舞になってほしくないという怒りから発せられたものだった。

「もう、どうしようもないんです」

 夢遊病者のように焦点の合わない瞳で弱々しい声を漏らした男が顔を上げると、純一は言葉を失った。なぜなら、その男が自分の勤める会社の経理部長、梶原景一だったからだ。

 梶原は人事部長の畠山とも親しく、畠山同様に純一を可愛がってくれていた。親分肌の畠山とは違い、梶原は世話好きな親戚のおじさんと言った風情で、時々自宅での夕食にも誘ってくれていた。その梶原がまるで死人の様相で人生を終わらせようとしているのをまさか自分が救うことになるとは、純一は思いも寄らなかった。

「何があったんですか?梶原さん」
「あぁ、曾我君か……。ほんとに、面目ない。もうテレビや週刊誌で知ってるだろ?」

 そう言われて、純一は息を飲んだ。

 工藤は自分の私腹を肥やすために、経理部長の梶原まで巻き込んでいたのだ。純一の脳裏には、夕食を用意してくれた柔和な梶原の妻や大学受験を控えた愛らしい一人娘の顔が浮かんでいた。

 一度消えかけた工藤への復讐の炎だったが、純一の心の中で再びめらめらと立ち上っていった。母親がどう言おうと、大吾が自分を蔑もうと、やはり自分は父の敵を討つ信念を貫くべきだと、純一は改めて意志を固めた。

「僕なら、梶原さんの力になれるかもしれません」そう口にしてから、純一は首を振り、その言葉を改めた。「いや、梶原さんが僕らの力になってくれるんだと思います」
「私に何ができるんだ?」
「その命、僕に預けたと思って、ついて来てください」

 そう言って、純一は梶原を抱きかかえて立ち上がらせ、次にやってきた中央線の下り電車に乗って、三鷹を目指した。

『月の沙漠の曽我兄弟(10)』につづく…。

〈あらすじ〉

 祖父が興し、父が受け継いだ伊東パッケージの技術とデータを盗んで大手印刷の源田印刷へ寝返ったのは祖父のいとこである工藤だった。父は顧客を奪われ、経営難になった会社を立て直そうと奔走したが、力尽き、息絶えてしまった。残された二人の子、純一と大吾はやがて大きくなったら、祖父を裏切り、父を死に追いやった工藤への復習をしようと夕焼けの空に誓ったのだった。

 曽我兄弟の仇討ちを描いた曽我物語の現代版。登場する人名や相関は、史実に則っている。

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