23. 体の半分はブックオフでできている。

 その日、乗り換え駅のO駅前のやや大型のブックオフに立ち寄り、100円コーナーを漁っていた。日本人作家の「あ」から左から右へ見ていって、「く」の黒川博行あたりを見ていると、右からオッサンが割り込んできた。ブックオフでもハードオフでもそうだが、他人の見ている棚、他人の見ているカゴを漁りたがる人がかならずいるが、あれはどういう心理なのだろうか。

出張も含め、どこかに行くときは、必ずその地のブックオフに行く。そうし始めてから、約20年。今の職場の採用試験の前日にもブックオフでCDを漁っていた。なお、採用されてから、まだ売れ残っていたので購入したそのCDは、フレンチハウスのModjoの"modjo"である。その後アルバムが出ない。なお、ここ10年以上、子供の聴くCD以外を買わないので、もっぱら本である。その本にしても、ほぼ100円コーナーのもの。誰か固定の作家を追いかけている時はともかく、読んだことのない作家を手に取るには、まず100円コーナー以外ありえない。新聞などの書評を読んでも、ナントカ賞の受賞作品リストを手に入れても、あんまり参考にはならない。電子書籍のカタログでは食指は動かず、結局物理的な本の山を目の前にして初めて、新たな本との出会いが生じる。年寄りなのかもしれないが、そんなもんだ。平積み?そんなもん知るか、背表紙のタイトルと著者名で、引っかかった作品を片っ端から買って読む。新潮文庫などの裏のあらすじのところに値札が貼られているのも良い。読めなければ読まないのだ。

ところで、最初に古本を買ったのは小学校時代、兄の中学の文化祭だっただろう。バザーコーナーで、「こち亀」の6巻と10巻を買った。枠外の落書きまで暗記するほど読んだので、事故で死んだ松吉の話の「テンプラ・アンド・タマゴ入り・ジャパニーズ・ヌードル(天玉そば)」や、チャーリー小林と安全バンドのストロング佐々木、立体凧に中川が走り書きした「インフレ日本円」という、要所要所のどうでもいい記述を、いまだに時々思い出す。中学以降はバザーでは文庫本を買うようになった。高校を過ぎると、タウンページの「書籍」の項「古書籍」の店を探して転々とする。大学に入る前に、筒井康隆の文庫本は、出版されていた9割以上を入手して読んでいた。つまり、小さい頃から、古本に抵抗はなかった。

実家の近所にブックオフができたのは、1993年頃。O県の大学の近くは、瀬戸内を本拠地とする古本屋チェーンが多く、立ち読みのできるブックオフは帰省時の楽しみとなる。また、Beastie Boysなどの新譜が480円なんていう値段で売られたりするのも見逃せなかった。大学院時代に読書をしないブランク期間があり、就職してからは、購入する紙の本の9割以上をブックオフが占める。理由は先述の通りである。

ブックオフO店に戻る。オッサンが邪魔過ぎるので、「く」から「こ」のところをさらっと高速スキャンする。背表紙だけで作家とタイトルを読むコツは、大学のCD漁りのときに身に着けた。CDを持ち上げてジャケットを見て棚に落としたり、パタパタとめくるのは、漁り道からすると外道に当たる。レコードはめくらないと無理なこともあるが。それらに比べると、ほんの背表紙などわけもない。著者名が上に有ったり真ん中にあったりとまちまちな角川の外国人作家コーナーと、字が小さい岩波文庫コーナー以外では楽勝である。

「し」のコーナー。塩田武士の本は、黒川博行以上に手に入らない。以前に別のブックオフで、5冊くらい有った中から2冊を購入したが、あのとき全部買っておくべきだったな、などと後悔していると、先程のオッサンが「さ」~「し」のコーナーに割り込んできた。イヤー、こういう人キラーイ。

気持ち悪いので、アンソロジー~「わ」のコーナーに移動し、右から左に探すように切り替える。ああいうオッサンは、他人の見ている棚だから気になるので、「し」の最後で棚が終わって通路まで達したところで、いなくなるはずである。一時期当たりが多かった「や」のコーナーは、掘り尽くした気がする。「ま」のあたりで、南伸坊…お、水木しげる『ふるさとの妖怪』に南山宏『宇宙から来た遺跡』と、珍しい本があるじゃないか。『ふるさとの妖怪』は白黒印刷がところどころ残念だし、子供が小学校になって興味を持っても、文章が難しいだろう。ちょっと興味を引いたのは、表紙をめくったところに「東武ストア内XX書店 H2.11.25」と鉛筆書きでメモられている。『宇宙から来た遺跡」もだし、隣の棚の山本弘『トンデモノストラダムス本の世界』にも同じ書体のメモ書きが。このメモ書きのせいで100円になったのだ。オカルト好きのオッサンが亡くなったのだろうか。

本のメモは、基本的に好きではない。中高のころ、チェックペンという緑のペンで線を引くと、赤いシートをかぶせると真っ黒に見えるために暗記に便利というグッズが流行ったが、教科書に書き込むのが嫌で使わなかった。蛍光ペンは、つい塗りすぎてしまうために、中学でやめた。ましてや、娯楽作品や小説に傍線蛍光ペンなどもってのほかである。

しかし、変な書き込みは好きだったりする。小松左京の小説の最後のページから裏表紙にかけて「酒はつらい しかし酒のない人生はもっとつらい 酒や酒や」とブルーブラックの万年筆で書き込まれている本は、宝物である。一方で、わからない言葉を5つばかり鉛筆でチェックされていた海堂尊の本は、読む前に全部消しゴムで消した。

「み」宮部みゆき『ソロモンの偽証』である。文庫で6冊のうちの1、2、4巻が売られている。『模倣犯』は、文庫で5冊だったか、どでかい単行本の上下巻で読んだ。その頃、悪いポスドクの横田氏に「そんな物、電子書籍で読めばよい。京極夏彦が電子書籍なら10冊買っても全部入る」と言われ、納得したが、宮部みゆきは反電子書籍派なのだな。しかし、ブラッドベリは死んだ。時代は変わる。

多数巻を買うと、読むペースを考えるのも大変だが、買うのがもっと大変だ。引っ越しをするごとに多数感を避ける傾向が現れているように感じる。6巻まで購入したよしながふみ『きのう何食べた?』は引っ越し以来、集めるのが億劫になった。しかし、出版社は、多数巻の作品は売上が良いと勘違いしているようである。ほんとに勘違いでしかないのだけど。キングの『グリーンマイル』のあのカスみたいな分冊、古本で安くても絶対に買ってやらん。

読むペースと言えば、個人的に連続して同じ作品を読むのは好きでないので、5巻の本なら、途中に色々はさみまくって4年くらいかけて読む。『ダ・ヴィンチ・コード』の3巻は、2010年から2012年までかかった。沼正三『家畜人ヤプー』5巻や荒俣宏『帝都物語』新装版6巻は何年かかったんだっけな。

結局、中島京子を1冊。だけ。これだけ時間をかけて1冊だけではあまりにショーモナイので、海外作家作品でも見ることにする。アンディ・ウィアー『アルテミス』は下巻買ってないんよねえ。売ってないけど。パオロ・バチガルビ『ねじまき少女』は、吾妻ひでおの『不条理日記』に出てきたあれだな、と思って気になってはや10年以上であるが、上巻しか見たことがないので、上下巻なのか、中巻があるのか気になって仕方がない。乱読過激派にとって、上下巻の2冊の分冊も買うのは億劫なのだよ。おっと、創元文庫のホーガンが何冊かあるやんけ…と手を伸ばした途端、右から手が伸びてきて奪われた。

オッサン、またおまえか。