106. とある謝辞。

「あのッ!少しいいですかッ!」
2月某日。まだ日が出ず、外は薄明るい電車の中で、女子高生が声を張り上げた。

早朝、K駅では始発の次の電車。F駅行きの下りのT電鉄。
私は10年ほど前の年末から年明けまで、約3ヶ月、つくばにある研究所へ通うため、暗い中を眠い目をこすりながら毎日、同じ時刻の電車に乗って通ったことがある。夜明けが一番遅いのは、ちょうど1月1日くらいであるということを知ったのも、この経験からだ。

早朝の電車というのは、また格別なものだ。早朝の電車には、他の時間の電車にはありえない整然とした静けさが存在する。冬の暗い時期ということもあるからか、毎日同じ乗客が乗っている。また不思議なことに、その座る場所までが、指定席のように決まっている。私は前から4両目、2番目のドアをくぐると、8割以上の確率で空いているドア横の席に座り、文庫本を開くのが日課だった。反対側には眠そうなごついダウンジャケットの同年代くらいの女性、一人分空けていつもゲームに講じるサラリーマン。その隣はイヤホンをかけて爆睡するベースボールキャップの兄ちゃんである。

毎日同じ人が乗ってくることがわかってくると、何らかの具合で1人でも欠けると、名前もどこの駅から乗ってくるからかも知らないのに、ひょっとして体調を崩したのではないかと心配になる。

一度だけあった、ちょっとだけ大きな事件について書こう。
私の座るベンチシートの反対側のドア側には、毎日おしゃれでいつも違う色の長いダウンジャケットを着た、夜のお店のママという風貌の女性が、しゃきっと良い姿勢で座っていた。しかし彼女は正月明けに一度だけ、飲みすぎたのかシートに倒れ込んで爆睡していることがあった。スマートフォンを手元に置いてあげてもはねのけて床に落としてしまう。短いスカートがめくれて、見えてしまいそうになるので、私を含め正面に座る人たちで、スマートフォンや荷物をひろっては、そっと落とさないようにジャケットのポケットに入れたり、小さなバッグをシートの少し離れたところに置いたりと工夫し合った。しまいにはスマートフォンを投げ出すたびに、居合わせた6~7人は、目を合わせて苦笑いする、妙な連帯感を覚えたものである。

「ワタクシから報告とお礼を申しあげますッ!」

U駅を過ぎ、E駅までのやや長い緩いカーブの中、少し肉付きのいい、膝にサポーターを付けた女子高生は叫んだ。さすがに乗り合わせた皆がお互いの視線を探り、まあ、問題ある話でもなさそうだから聞いとく?と無言の会話を交わした。こういう時ヤバいのは、痴漢と間違えられることと、突然車内で吐くことだ。

「この一年ッ!ワタクシは、O駅始発のF駅行きの電車でッ!毎日通学していましたッ!」
うんうん、知ってるぞ。おにぎりを食べて、乗ってる間爆睡してたよね。膝のサポーターや、持っているごっついビニールのバッグから、何部か知らないけど、朝練がんばってたんだよね。そういう言葉が無言の中流れる。スマホゲームのおっさんが、ニコニコ笑っているのが見える。

「実はッ!この格好はカムフラージュでッ!運動全然ダメなんですッ!」
えっ?
皆が眉をしかめてそれぞれの顔を伺う。

「実はッ!ワタシは、夜早く寝ないとダメでッ、早朝に学校で勉強していましたッ!」
ほー!
乗客同士が、またお互いの顔を見回す。前のゲームのおっさんは笑いをこらえきれないという顔をしている。いつもスマホを眺めている正面のごついダウンの女性も、今まで見たことのないようなほんわかとした表情をしている。我が子を見る表情というのはこういうものなのかもしれない。

「おかげさまでッ!T大学の工学部にッ、合格できましたッ!」
「へぇー」「パチバチ」
無言だった車内に、小さな感嘆と、まばらな拍手。

「おいネエチャン、俺らぁ何もやってないぞ!」
スマホのおっさんが、ニコニコしながら声をかけた。

「…いえ、みなさんが、同じ時間、同じ電車でッ、ガンバッテ仕事に向かわれるのを見てッ、ワタシもガンバロウってッ、思ったんですッ!」
またまばらな拍手。

「アタシは帰りなんだよね。まあ、いいけどね」
夜のお店のママがつぶやく。やっぱりそうだったんだなという、別の目の合図を我々は送り合う。

「はいッ!え、ええッ、えーと、でも、えーと」
「おう、がんばれっ」
予定外のツッコミにうろたえる女子高生に、誰ともなく応援がはいる」

「そ、そう。お姉さん」
女子高生はママさんに向かい、声を描けた。

「毎日おしゃれで、すごく姿勢が良くて、服もワタシみたいにクシャクシャじゃなくてッ、将来はそういうきれいな大人になりたいなッって思いましたッ」
「ありがと」

「次におじさま」
女子高生は、夜の店のママの向かいの50代くらいの男性に向かった。

「毎日、ビシッとしたスーツと、面白いネクタイが素敵でしたッ」

「お兄さん。お疲れのところ申し訳ありませんッ」
スマホ男が、隣のヘッドホンの男をつつく。
「お前の事っぽいよ」「え、ええ?」

「お疲れでも、毎日仕事に向かわれている姿に勇気をもらいましたッ」

どうやら、この車両の一人ひとりにお礼を言うらしい。せいぜい10人余り、すぐ終わってしまう。そして私の番になった。

「お兄さんッ!」
おじさんじゃなかっただけで、株が跳ね上がる。
「毎日、読書をされていてッ、ワタシも勉強しないといけないと思いましたッ!」
ああ、うん。小さく拍手を3つしておく。

全員に挨拶をした女子高生は、降車するE駅の到着のアナウンスとともに言った。

「ワタシはッ!、この後は、卒業式しか学校に来ませんッ。だからッ!この電車も、今日が最後ですッ!春からはッ、T大学でッ、がんばりますッ。1年、ありがとうございましたッ!」

E駅に到着減速していくT電鉄、停車して彼女が降車し、お辞儀をして去るまで、大きな拍手が止まることはなかった。