20. 試薬を溶かす。

 試薬の粉を量り取り、ビーカーに入れて、超純水を加える。そこに、スターラーバーという白い長細いプラスチックでコーティングされたマグネットを入れ、スターラーのスイッチを入れる。白い粉は舞い上がり、巨大な渦が形成される。

"スターラー"とは、"stirrer"。日本語でいうとかき混ぜ機。"stirer"と"stirrer"の両方が辞書登録されている。細長い棒の先がくるくると回るコンクリート用もあるが、実験室で使うのはモーターの力でマグネットをくるくる回して、磁力の力でスターラーバーというマグネットを動かす力のヤン…いや、"マグネティックスターラー"と言われているものである。磁力かき混ぜ機だ。一時期、食品をきれいに撮影するために、フードコーディネーターがコーヒーのクリームをきれいな渦に見せるために使っていた、ということで有名になったものである。

以前にいた、ちょっと変な日本人医師の研究生が
「たのしー、時間忘れてみてしまいますよこれ」
と言っていたが、水が渦になってくるくる回って、粉が少しずつ減っていくさまを見ているのは、楽しいというよりも、安らぐ。溶けにくい試薬を溶かそうとして、ガツッ!と引っかかってしまったものを、少しずつ容器をずらして回るようにするのなんか、生き物を育てているかのように感じる。

また、蜂蜜のような粘土の高い液体を溶かそうとすると、往々にして一旦固まり、ゴムのような透明な塊がゴロゴロと動くさまもまた良し。なかなか溶けず、場合によっては一晩機会を動かしっぱなし、溶かしっぱなしになる。

夏休みに中高生の見学会を行い、よく出る質問として「研究で何が一番楽しいですか?」というものがある。その時は発見の喜び、人との出会い、失敗の克服、などという模範的回答しかしないが、溶けるはずの試薬を溶かしているときというのは、3本の指に入るくらい楽しいことであろう。

溶けるはず。理論上は。それが溶けない人もいるのだ。

例えば5規定の塩水や20%のSDSというと、簡単には溶けない。楽勝に見える砂糖だって、意外に溶けない。溶かし方にコツがあるとすると、小学生でも思いつくことだが、温めることである。我々のようなスレッカラシの研究者ともなれば、電子レンジで沸騰したお湯を作って、そこに粉を入れる。そこまでしない人のために、電熱線の入った撹拌装置というものも有って、温めながら溶かすことができる。

温めるというと、一度、実験室でゴムの溶けたようなにおいがしてきたので見に行ったところ、鍋の中に器用にビーカーを入れ、ガスコンロにかけて溶かそうとした学生がおり、それを忘れて取っ手が溶けていたということが有ったのだ。それ以来ガスでの加熱は禁止になった。

その日も、トリスを溶かしつつ、カラカラとかすかにさえずるようなスターラーの音を聞きながら、実験ノートを書いていた。背後の人の気配に振り向くと、所長。うえー。

「何やってるのー?」
「トリスを溶かしてるんですが」
「そんなのほっとけばいいじゃーん」
「まあ、溶けるのを見るのも楽しいので」
「そうおー?僕は析出するほうが楽しいけどなー」

まあ分かる。薬屋にすれば、溶けていた溶液にある溶媒を加えることで、純な結晶を得る際の快感というのは、有る。

でも私は知っている。
所長室の隅で、所長が塩化ナトリウムや硫酸銅の結晶を育てていることを。

(年度末で忙しいため、更新頻度を落とします)