82. 不動少女。

 私の通っていた中学校と高校は、いわゆる、いや、いわゆらなくても、進学校の代名詞のような6年制一貫校で、男子校だった。男子校なので男女の出会いなど無いと考えられるかもしれないが、実際にはそれほどの砂漠のような6年間というわけではなかったのである。

朝起床、着替えながらパンとちょっとしたおかずを放り込み、今と違って歯磨きに神経質でなかったので、往々にしてそのままリュックをひっつかんで駅に向かうのが、NHKラジオが市況を読み始める6時55分。歩いて15分、自転車で8分の距離を、最高時速30kmで駆け抜け、眼鏡屋の目がくるくる回る看板を眺めながら、自転車置き場に突っ込む。

そこから、駅前のスーパー裏路地を突っ切って、地下道を駆け下り上がり、まだ当時存在していないが、IC定期だったら楽なのに、などと考えながら磁気定期券を自動改札機に突っ込んだあたりで、7時5分の近鉄電車の各駅停車が入ってくる。

3駅または7駅先で一旦下車して、3~5分ほど待つと、後続の急行に乗り換えられる。そこで吉原や泉らと合流して登校するのである。

上記のルーチンは、中高6年間、1本乗り遅れることは有ったものの、ほとんどずれることはなかった。皆勤賞で落ちこぼれというのは、学校での一番の悩みの種であるが、私はそれだった。

*

そうそう男女の出会いである。
吉原や泉といえば、女の子を見つけると、片っ端から声をかけるという、急先鋒である。それは、通学の電車の中も例外ではなかった。

通学の電車はN県、O府へ向かって行く下りであるので、様々な学校の学生が通学に利用していた。その中でも、S女という女子校は学力的にも有名であるが、我々の中でも非常に声をかけやすく、文化祭にも呼びやすいという噂が有った。

ある日の朝、吉原がS駅を過ぎたあたりで言った。

「おれ、あっちの子に今から声をかけてくるわ」
「おい、満員電車でか?無理やろ」
「無理やと思ってるやろ?まあ見てろ」

そこまでは身動きを取るにも困難な満員電車だが、S駅の次の駅で、多くの大学生や大学関係者が下車するため、少しの余裕ができる。

そこを見計らって、吉原は移動し、いつものオーバーアクションで何かを話している。S女の3人は、時折笑いながら吉原と話していた。

我々の降りるT駅で、吉原は、
「もうちょい喋っていくから、降りといて」
「おいおい」

本当に、そのまま電車に乗っていってしまった。その後、遅刻してきた吉原に話を聞くと、吉原の姉がS女に通っており、それで盛り上がったのだと言う。
S女の3人組は翌日から、その急行の3両目の一番前のドア付近には、乗ってこなくなった。

*

高校2年、まだ肌寒い春の朝、その女の子は現れた。同じT駅からほど近いH高校の学生だ。飾り気はないが、当時の佐野量子に似た、少し背が低めの、素朴な女の子だった。近鉄急行の3両目の同じところに、乗り換えのO駅で一緒に乗ってきた。

6月で夏間近になり、衣替えで薄着になると、満員電車の雰囲気が変わる。制服上着の肩のいかつさが消え、白く明るくなる車内。一方で我々のD校では、高校は私服であったので関係なかったのだが。

それはそうと、薄着になると活性化してくるのが、男子高校生である。活性化したところで外部への発現系を示すか示さないか、それは個々人の心構えと倫理観なのである。しかし、見事に表現系を顕わす人物も、身近にいたのである。同級生の吉原と泉だ。

「おいおい、あのドアのところに立ってる娘さあ」
泉が顔を下に向けて話し出す。
「っおう、あの娘やろ、オレ、前から目えつけとったんや」
待ってましたとばかりに吉原が答える。
「あの制服って、T駅で降りるよな」
「おう、H高や」
「電車の中は、ちょっと無理かな」
「そやな、帰り待ち伏せしよか」
「よし」

あっという間に作戦は決まってしまう。男子高校生のムダとリビドーのみで動く駆動系は非常に単純明快である。

それから数日、雨の日を除いて、泉と吉原とあと数人は、下校の途中でT駅前をウロウロし、彼女の下校を待った。他の高校の時間配分はよくわからなかったのだが、我がD校は、6時間目が終わってすぐにT駅に向かうと、他の学校よりも早く電車に乗ることが出来たため、それよりは遅くないだろうと予想したのだ。

朝の電車で泉に聞く。
「どう?会えたん?」
「いやー、見つからんな。H高の下校時間は大体わかった。4時頃や」
「遅いな」
「部活やってるんやないん?」
「まあな、ウチの学校、ほぼ部活やってへんし」

*

その日、音楽教師が研究日で休みであり、私がほぼ皆勤の幽霊部員を務める園芸部も音楽準備室に集まらなかったため、泉らと下校することになった。泉、吉原の目は燃えているが、私や細田、中森という付添いは、目前に迫った中間テストのために死んだ目で歩く。

「中間さー、倫理どうすんの?授業やってへんやろ?」
細田が言う。彼は世界史、日本史のプロのヒストラーだ。
「あーあれな、一応2回授業やったで」
私は地理、倫理/政経を取っていた。ちなみに全て同じヒゲの教師である。
「テストあんの?」
「ヒゲ、ずっと休んでて、自習ばっかりやったしな」
「マジで?」
「あー、まあ、数学よりはなんとかなると思うわー」

「…あれ?あいつ何やってんの?」
同級生のKが、団地の方を見上げてぼんやり立って薄笑いを浮かべている。
中森がなにかに気がついた。
「あれちゃうか?」
団地のベランダで遊ぶ、小学校低学年と見られる子供。スカートの中が丸見えになっていた。
「うーわー、うちの学校、ロリコン多いからな…」
「Oもやって言ってた」

Kに気づかれないよう、道路の反対側をこっそり通る。
「あいつらさー、AVってどういうの見とるんやろな」
「ああ、一回聞いたら、『そういうのは不潔だから見ない』ってよ」
「まじか。一貫してるな」

ちなみに、話に出てきたOは、実は男色趣味であって、女性には一切興味がなかった。卒業後に私について「武井は尻の形が良かった」と漏らしていたことを、後々聞き、震え上がったことがある。

*

駅近くまで来て、細田、中森らと「先帰ろか」「そやな」「テストやし」などと話していると、目ざとい泉が何かを見つけた。

「あ、あの娘いるやん」
「どこどこ?おう、マジや」
ヒートアップする2人。反比例して覚めていく我々3人。声をかければ何かがあるかもしれないが、高確率でゲージはマイナスに振れるのである。声をかけなければゼロのままキープできるし、毎日彼女を電車で見ることがあるじゃあないか。まだ我々にはあと1年半…。彼女は、朝と同様、一人で歩いて駅に向かっている。

しかし、朝の窓からの光で見ていた彼女とは、ちょっと雰囲気が違う。朝日の中で見る彼女は、ガラスのようなはかなさとぬいぐるみのような柔らかさが共存しているようにみえるが、夕方に見たら、普通の女子高生にしか見えない。まあ、普通の女子高生であるのは間違いないが、泉に言われないとわからなかっただろう。夕方になって、表情に疲れが加わったせいなのかもしれない。

「こんちわ」
我々の憂慮を知らず、すでに泉が声をかけていた。
「…」
「いつも、朝の電車で一緒で、あ、うちらD校で、怪しいもんじゃないです」
「…」
いや、十分に怪しい。

「いや。あの、いつも朝見て、かわいいなって思ってたんで」
吉原がフォローを入れる。まあ、泉&吉原のタッグで話している間は、我々の出番はない。
「だから、どっか行かない?ちょっとだけ。おごるし」
「…いや、ちょっと…いいです」
断られた。当たり前だ。

「オレ、吉原。こいつ泉、こっちが武井、細田、中森」
「ほら、朝、いつも同じ電車にいてる」
「…」
「名前聞いていいすか?」
「…え、飯田です」
「飯田さん。よろしく」

飯田さんは、しゃべらない我々の方をチラチラと見ている。助けを求めているのか、気持ちの悪い仲間がいると思っているのか。しかたない、助け舟を出そうかと思ったところで、飯田さんが言った。
「あ、あのー、ワタシ、急ぐんで」

「そっかー、じゃあまた今度」
こういう引き際が早いのも、泉の良いところである。
飯田さんは慌てて駅の方に向かっていった。

「そっかー飯田さんかあ、連絡先聞けんかったなー」
「急いでたししゃあないやろ」
「聞いたら教えてくれたやろか」
「無理ちゃう?話し始めたばっかりやで」
泉と吉原の反省会を聞きながら、上り電車はその日も順調に上っていった。

翌日。
近鉄急行3両目の一番前のドア付近に、飯田さんはいた。我々に気づくと、目をそらしたので、我々は早々に脈はないということを思い知らされた。

毎日、電車に乗る際、好ましくない乗客などがいると、S女の3人のように、電車を変えてしまうのが普通だ。どうしてもその電車にしか乗れないのであれば、違うドア、違う車両に、少しずつ変えていくものだろう。

しかし、その次の週も、次の月も、飯田さんはずっと同じ車両の同じドア付近に乗車してきたのだ。

車両のその位置は、泉らの乗ってくるM駅の階段に近いだけで、飯田さんの乗ってくるO駅、学校のあるT駅で、決して便利な位置にはない。しかも、飯田さんが友達と一緒に乗っているところも、卒業まで一度も見なかった。

結局、あの日以降は一切、飯田さんと話すことはなかった。

冬のある日。その日も、飯田さんは進行方向右のドアの手すりにもたれて、ぼんやりと外を見ていた。途中のS駅で乗ってきた乗客に押され、我々のグループは飯田さんのいる近くに移動した。相変わらず、泉と吉原が主導になって、馬鹿な話をしている。中村あゆみは美人か否か。細田が美人派に乗って「泉、わかってないわ」と援護射撃をしている。

そんな折、飯田さんの視線がこちらに来ているように感じた。そちらに目をやると、飯田さんが私を見ている、そんな気がした。それくらいの僅かな瞬間、間違いなく目が合った。そして、車外に視線をそらした。

その時彼女は、少しほほえんだように見えた。窓からの朝日があたって、そう見えただけなのかもしれない。
それでも、朝の彼女は、やはり少しだけ、特別だった。

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筆者。仕事等で余裕のなく、満足に文章を書くことができない状態が2週間以上続いているため、更新ペースが落ちる予定です。