92. 私の中の失われた20年。

 その日の朝、いつもは乗り換えのターミナル駅前で購入している昼ごはんを、地元の駅で買ってみようと思い立った。問題は、ターミナル駅では4種類のコンビニが選び放題なのに対し、地元だと立地的にファミニーマート一択になることだ。昼食のパンを買うにあたり、ファミリーマートはかなり好きなコンビニではある。値段の割に質が良い。ただ、品揃えが偏っている。

定番のもちもち肉づつみのパンと、蒸しパン、パックのコーヒー牛乳を取り、セルフレジに向かう。この店はなぜセルフレジを有人レジの一番手前に置くのか。トラブル対策なのかもしれないが、他の並んでいる客の横をすり抜けて、セルフレジを使うのは、なかなかに勇気がいる。いつもO駅のファミリーマートでやっているように、Tカードの登録、商品スキャン、支払いをし、レシートが出てくるのを待ちながら手持ちのショッピングバッグに詰めていると、台の上に手が伸びてきて、ペットボトルが2本ゴトリと置かれた。セルフレジは、支払い後の圧がすごい。

いつものように改札を抜け、階段を登って降りる。ここに住んでから、これまで何度も高架駅化の運動があったが、未だに何も変わらない。線路が5本も通っている駅で、電車を避けながら空中に駅を作るなんて、なかなか難しいのだろう。空中に書けるペンというのが一時期はやったが、ああいうものが有ればいいのだ。改札の後、階段を上がるところまではものすごく混んでいるが、降りるときにはガラガラだ。マイナー路線バンザイ。とか言っている間に、もう乗らなきゃいけない6:30の電車がホームに滑り込んでくる。幸いにして、定時の1時間前の電車は空いているので、簡単に座れる。そして、本を開く。

ライトノベルだと思っていた文庫本は、読み始めてみれば普通の小説だった。最近は、アニメや漫画っぽい表紙のということでは、ライトノベルと普通の小説の見極めはできなくなっている。太宰治がアニメ絵表紙の時代だ。小説の中では、高校の図書館に紛れ込んだ、隣の学校の文庫本の謎を、新米司書と図書委員で調べている。短編の2作目から、急に登場人物が活き活きしてきた。1本目は、離婚したとか仕事をやめたとかその状況に持っていくために、妙に言い訳がましかったが、それがなくなった。ただ、謎解きをがんばってしまうのは、それはそれで違うんじゃないかなと読みすすめる。

1年に、大体90冊弱の小説を読む。社会人としては多いほうだと思う。学生時代なら普通だろう。1冊読むごとに、原稿用紙にして2~3枚程度になるレビューを、読書レビューサイトに書いている。かれこれ10年強になり、そろそろレビューが1000冊に到達しそうだ。そういうことをしていると、本を読みながら、レビューの文章を考えてしまうことが有る。『せっかくのストーリー展開に、超能力は必要なかったのではないか』『事件の最中に、話が過去に飛んでしまうのは少々不親切と言わざるを得ない』云々。だいたい、そういう事が頭に浮かんでいるのは、ストーリーに集中できていないのだ。

小説の中では、新米素人司書が、高校生に本を薦める。高校生は不思議なほどすんなりとそれを受け入れる。本を読まなくなった社会人とは大違いだ。『動物のお医者さん』の文庫本、『臨海のパラドックス』『火星の人』上下巻、いつになったら返ってくるんだろう。

終点のO駅で下車、またマイナー路線へと乗り換える。今日はコンビニに寄らなくて良いので少し早い。早く着いたら、オンラインのメモで本のレビューと、書きかけの小説でも書くか。そろそろ学会の用意もしなければならない。新型肺炎の緊急事態宣言とか言ってるのに、本当にやるんだろうか。

高校生くらいしか乗らない、ガラガラの始発の電車の端の席で、改めて本を開き直す。主人公たちは、スティーブン・キング『塀の中のリタ・ヘイワース』を引き合いに出して話を始めた。もちろん映画『ショーシャンクの空に』の原作である。

あれを読んだのはいつだったか。10年くらい前だったはずだ。スティーブン・キングが事故に遭い、その後のリハビリを始めたと聞いて『幸運の25セント』とともに『ゴールデン・ボーイ』を買ったのだ。両方短編集で、『幸運の25セント』からは『一四〇八号室』が、『ゴールデン・ボーイ』からは表題作が非常に印象に残っている。両方とも、訳はいまいちだ。

『ゴールデン・ボーイ』は、元ナチスでユダヤ人迫害をしていたが、アメリカに逃げ住んでいる老人と、学校に行くのが嫌になった少年が、弱みを握り合う駆け引きの話である。浦沢直樹あたりが漫画にすると映えそうなジメジメしたストーリーで、キングらしくてよかった。一方で『塀の中のリタ・ヘイワース』は、誰にも触らせなかったポスターが実は、というショートショートのような話だったような記憶しか無い。あれがどう、感動の、歴代映画のベスト1に輝くような脚本になったのだろうか。そう、見ていないのである。

本の短編の方は、佳境を迎え、本を借りていた人物の秘密が明らかになりかけたところで、職場の駅に付く。こういう生活を始めてから10年以上使っている、文春文庫のしおりをはさみ、本を閉じた。いつも他のしおりも考えるのだが、大きさもちょうどよく、淡いグレーで色移りしにくそうな文春文庫のしおりが一番しっくり来る。ダメになったときのために、何枚かストックしているくらいだ。

*

職場への道すがら、また職場に入って1日の予定を考えながら、『ゴールデン・ボーイ』『塀の中のリタ・ヘイワース』を思い出そうとする。他になにか収録されていたっけ?と引っかかっていたが、検索すると中編2作が収められた本であった。家のどこかにあるはずだ。

PCでメールソフト、ブラウザ、オンラインのメモを開き、秋の学会での発表内容のアウトラインを作っていく。1時間早いと、学生や技術員からの問合せがなくて静かでよい。去年とほぼ同じデータなので、ちょっとストーリーは変えておかないとなあ、と考えていると、内線電話が鳴った。

「あー武井くん?おはよう。今、ちょっと来て」
須賀所長である。家が近いのもあり、朝が早い。チッ、この平穏な時間に、と考えながら廊下を歩く。所長室は廊下の隅の北側だが、目と鼻の先だ。

「あ、武井くん、ちょっと、そこ座って」
所長はコンピューターの画面から視線を離さず、メールか何かを入力している。ピンときた。これはヤバいやつだ。間違いない。機嫌が良ければひとまず視線を合わせてくるし、怒っていてもすぐ終わるときは、入り口で立ち話で終わるはずだ。また、『武井くん』と呼ばれているときはまずい。機嫌が良ければ『武井ちゃん』のはずだ。

ターンと最後の改行を入力し、カチカチと送信ボタンらしきものを押した所長は、一つ大きなため息をついて、応接セットに歩いてきた。

「あのさー、困るよー」
「はい?」
「あんなメール送ったらダメだろよぅ?」
「え…?」

まったくもって、何のことかわからない。
「T大のIさんにさ、『解析はウチでやります』とか送っちゃってさー、あんな事書いたら、ウチでやらなきゃいけなくなるでしょーがー」

私は自然に泳いでいく目を高速のまばたきで必死に抑えながら、記憶をたどっていく。そうか、昨日の帰り際に、T大学のI先生にメールを出したのだ。サンプルができたので、送るという内容だ。そこに須賀所長から『解析はウチでやってもいいんだし』と言われたことを記載したのだ。

「…えー、でも、所長が『解析はウチでやってもいい』っていいましたよね」
「あんねー、あれはさー、向こうがやってくれなくなったらやるって話よー。それくらいわかんないのー?」
「え…」
「思っていても、言っちゃダメ、書いちゃダメっていうのくらい、もう研究やって長いんだからわかってよー」
「は、はあ」
「共同研究ったってねー、ちゃーんと言葉を選ばないと、全部こっちに押し付けてきちゃうよー。解析するコンピューターだって、ウチにはないじゃない。、またつくばの研究所に頼むのー?」
「…」
「あのねえ、こっちだって、人も予算もいっぱいいっぱいなの。言っちゃいけないライン、わかろうよー。ねえー。言ったらそこで試合終了だよー」

その後、約5分間の小言を聞き、席に戻った。まだ7時台なのだが、今日一日の仕事のやる気を失ってしまった。小言の後半には、朝読んだ本のレビューを頭の中でこねくり回していた。しかし、本を題材にする場合、やはりメジャーどころは読んでいなければいけなかっただろうか。あの本の1作目では、『ハリー・ポッター』や村上春樹の小説を引き合いに出していたが、どちらも読んでいないのだ。なぜ読んでいないのか…と考える。

*

ふと考えると、自分の中の暗黒時代が1990~2000年代なのだ。ふと思い出した。『ハリー・ポッター』は2000年頃、村上春樹は1990年代の代表格である。

1980年代末にバブルが崩壊し、深夜のタクシー街が消滅。値上がりする土地を売りそびれた、地方の駅前のタバコ屋が廃墟になり、引く手あまたでどこからともなく大学生に流れていた金もなくなった時代に、私は大学に入った。入った瞬間に、『めぞん一刻』の五代くんの大学さながら、単位が取れぬ、就職もないと涙目でゾンビのようにさまよう先輩連中を学部校舎で眺めていた。

自分自身はというと、バブル世代だった兄とは対象的に、金は大事、ローンは悪という価値観のもと、大学当初から、キャベツと玉ねぎで料理のレパートリーを増やし、中古のCDや古本を、自転車で走り回って探すという、自然な節約生活を送った。親からは「仕送りが減っとらん。何を食べているのか?」と電話がかかってくることも有った。CDはヘヴィーメタルのルーツで1970年代のもの、本も1970~1980年代のものばかり集めていた。

当時はやっていた、『スラムダンク』『エヴァンゲリオン』などは一顧もせず、深夜のお笑いトーク番組ばかり見ていた。そういえば、笑福亭鶴瓶が肩パットの入ったダブルのスーツを着て『パペポTV』に出ていたものである。

また、その頃住んでいたのは、O県というそこそこの田舎であり、大阪でも広島でもない独自の文化圏であった。テレビは大阪か東京のチャンポン、ラジオからは「用賀料金所」などという交通情報が聞こえる。よく言えば大変のんびりした優雅なところであった。そこでも一応、『エヴァンゲリオン』『マトリックス』などという当時のカルチャーは入ってきていたが、「みなくてもいいか」という雰囲気があったのも、田舎ならではの空気だったのだろう。『リング』も最近まで手を付けていなかったが、続編がSF化していて面白かった。『パラサイト・イヴ』をいち早く読んだ同級生が「全然意味がわからんがー、これ」といっていたのを思い出す。

所長は1990年代のものが好きなようだ。家には『スラムダンク』『幽遊白書』『すごいよマサルさん』などを全巻揃えているらしい。会話やプレゼンなどで、それらしき台詞を時々使っている。医師の学生には受けが良いが、そろそろ世代でもないような気がする。愛想笑いなのかもしれない。

我々の世代を指して"失われた20年"というが、私の中では1990~2010年頃の20年が失われている。決して嫌な時期ではなかったが、文化が好きでなかった。

しかし何よりも気に食わないのは、その時代を生きていたというだけで、その頃のものを懐かしがらなけれないけないということである。安室奈美恵もエヴァンゲリオンも興味ないということが許されてはいない。

参考文献: 竹内真 『図書館のキリギリス』 双葉文庫