102. 小説は裏の顔。

 小説を書いている。ネットで隠れて書いている。
もう50も手が届きそうな年齢に到達してきたけれども、公言はしていない。しかしネット上で公開はしている。

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小説を書こうと思いたち、実際に始めたのは3年前だ。高校の頃にこっそりショートショートを数本書き、うち1本は匿名で高校の文芸サークルの会誌に載せてもらった。ブラックユーモアを題材にしたショートショートは、男子校に通う同級生たちにはそこそこウケていた。単に、壮大に歴史やファンタジーなどの長編小説を書くサークル員達の作風が、高校生には馴染めなかっただけだと思うが。

一方で、小学校からこの歳になるまで、大学院の一時期を除いて、常に小説を読み続けてきた。これまでに読んだ本は万は行かずとも数千冊は超えている。学生時代はSFやミステリを好んで読んできて、就職してからは純文学というものが読めるようになった。大人になるまでは純文学など読む際に軸足をどこに置いてよいかわからぬ小説は相手にしてこなかった。学生時代、本を読んでいる割に、現代文のテストはさほど良くなかった理由は、そのあたりにあるのだろう。

社会人になり、備忘録のために始めた数行から1000字程度の本のレビューが800冊を超えたある日、ふと小説を書く方法が気になり始めた。方法を知るために、小説を書いてみたらどうだろうか。

ミステリを書くなら、事件の解決と人間関係を先に想定して、そこからさかのぼって事件を起こす。あえて犯人ぽい無関係の人物を登場させたり、探偵や目撃者という人物を邪魔する妻や友人を配置する。これで300ページの本を書いていくのだ。ものすごい集中力と時間が必要であろう。いつもミステリのレビューに「動機が弱い」と書いてしまうが、動機を軸に書かない限り、どうしても弱くなってしまうことが予想される。

SFは多様であり、スペースオペラのような設定ありきのものは、付け焼き刃で小説を書こうなどと思い立った私が逆立ちしてもできる芸当ではない。高校の文芸サークルで長編ファンタジーを書いていた栂という男は、普段から何を喋っているかわからなかったが、ファンタジーの世界を頭の中でジオラマのように構築し、世界観を保っていたのだろう。

SFを書くなら、以前に書いたショートショートのように、現実世界から一つ何かを除いてやればいい。こういうものを「思考実験」と呼ぶ。たとえば、ある日突然ガソリンが消える。会社に行こうとしてもバスが動かない。タクシーを呼ぼうにもタクシーの運転手が「なんかね、故障みたいなんですわ、ダンナ」としかめっ面で窓から首をにゅっと出して怒鳴る。飛行機が飛ばない。物流が止まり物が届かなくなる。しまいには重油発電が動かなくなって、一部の地域で停電が起き始める…。この場合、重要なのは終わり方である。あとはどれだけリアルに、物が無い世界を描ききるか。一つ問題があるとすると、大方のものは50年ほど前から書かれまくっていることだ。

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そこで、私が始めたのは架空の青年をでっちあげて、彼を人形のように動かして、現実の日常生活をロールプレイさせるという手法である。架空の青年の視点になってみたり、また俯瞰してみたりということで、日常を描く。純文学のようなものになっていく。

やってみた。それで100作書いた。
予想通り、ネットでも話題にはならなかった。この世の中、小説を書く人などゴマンどころかゴヒャクマンほどいるのであるから、とあるサイトでたった100作の文章を書いたからと注目にも話題にもなるはずがない。大量のテキストと画像と動画の海の中にあるネットにおいて、他人の書いた架空の話のテキストを読む人など、ほとんどいない。

参入しやすいのも問題だ。小説の場合、昔ならペンと紙、今ではパソコンや、なんなら携帯電話一つでも書き始められる。イラストなら画材やペンタブレット、音楽なら楽器を買わなければスタートできないのに対して、文字入力ができる端末が有ればだれでもできてしまう。

書いた小説も外枠や設定をガチガチに構成してから書くような小説じゃない。石を積むように、倒れない程度にバランスは考えるが、どんどん乗せていくような書き方をしている。書く側からすると、始めがあれば積んでさえ行けば、最初にオチを考えていなくてもお話はできていくのだと言うことがわかった。それが収穫である。

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小説を書くようになってから、本の読み方が変わったきっかけについて思い出すことが多くなった。

15年ほど前、就職して半年ほど経ったある日、私はまだ未開封であった引越荷物のダンボールを開封し、本棚詰め込んでいた。本棚代わりのカラーボックスに文庫本を前後に並べ、棚内の上の空いたスペースに漫画を押し込んでいた。そこでふと気がついた。

「男性作家の本しか買ってない」

当時、全てではないが、7~8割の本が、男性作家の手によるものだった。これはなにかあるのではないか、そう考え始めたのだった。
そこから、意識して女性作家の本や漫画を買うようにしてみた。そして、読み始めて気がついたのである。

「女性作家の本は読みにくい」

文章が散漫である。自分を正当化するような描写が景色などにも適用される。自己中心的で読者にもその考え方を強いる。余計などうでもいい表現が多い。主人公の行動の目的がわからない。主人公の魅力を描きすぎる。漫画なら意味不明な語りが多い。

しばらくは、興味のないジャンルの音楽を聴いているような、落ち着かない気分になることが多かった。名作と名高い少女漫画も、要所要所で引っかかってしまって頭に入らず、10巻のうち2巻ほどで読むのをやめてしまったものもある。逆に男性作家の作品を手にすると、目的に一直線に描かれていたり無駄な表現がないように思えたのだ。

同時に、男性作家独特のまずさも理解できるようになってきた。余計な表現がないので描写が味気ない。登場人物をダメ人間に書きすぎる。自分を強く描かないため周りに流されて不幸になる。突然出てくる取ってつけたような動機が理解できない。

例えば「好きだ」と言うのに、男性作家なら、作品の半分を使う。「好きだ」はある意味で飛び道具のようなものだ。相手を即死させるような、拳銃のようなものだ。

その「好きだ」を女性作家は小説なら2ページ目、漫画なら1作目から使ってしまう。日常生活を描いた作品かと思って読み始めたら、朝起きた主人公の食卓の上に拳銃が置かれているレベルで、無造作に「好きだ」を発砲する。この感覚には、なかなか慣れることはない。

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100作を書き終え、嫌になったかと言うと、そうでもない。今は書いていた青年の中学から高校時代の話を書いている。一つの目標は、男性作家でも女性作家でもない作風だ。ちょっとばかしボーイズラブ(BL)風味を強めに付けて始めてみた。

中学から高校時代ということは、前作の5年くらい前の話になるのだが、そこは現代なのである。この時間をいじる感覚は、創作でしか許されない楽しいところでもある。主人公は毎日マスクをして、自転車で中学に通う。田んぼの中を通る県道を片道2.5km走る。田んぼとは言うが、コンビニもレンタルビデオ屋もある。家に帰ればGoogle Homeスピーカーがあって、ヨアソビをかけながら、スマホを目の前において宿題をする。

しかし彼は「好きだ」はなかなか言わない。

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小説を書いていることは、妻にも言っていない。もちろん仕事場でも一切言わない。BL風味ならなおさらだ。サイトのIDを見ればわかるし、メールアドレスで検索すれば出てくるが、SNSやブログなども、お互いに検索しないことが暗黙の了解になっているため、誰も言及してこない時代になった。

「ウチの会社のあの薬、高血圧にも効果あるって、薬学部の知り合いがSNSで書いていたよ」

そういうふうに教えてくれる同僚もいるが、その同僚のアカウントも調べることはない。

一方で、楽器の趣味はオープンにしている。ヘタクソなりに上達すると嬉しいし、子供のつたない主旋律ピアノに合わせて、プリキュアのエンディングのバッキングのギターを弾いたりすることは、事務の人たちは知っている。

楽器は公言、小説は秘密。
かたや妾、かたや隠れた逢瀬か不倫とでもいうところだろうか。

隠れてコソコソというのは、少し後ろめたさもあり、それもなんだか心地よいのだった。この歳にもなると、そういう裏の顔も少なくなっていくからである。しかし、たまに出来の良い物が書けた翌日は、つい誰かに喋りたくなる。本好きの事務の坂口さんや、実験補助との仕事中に、つい口が滑りそうになって、慌てて止める。

不倫はできない性格である。